北海道の最東端、根室振興局の中央に位置する標津町。
町民の文化活動や生涯学習の拠点として親しまれている標津町生涯学習センター「あすぱる」の敷地内には、3体のシマフクロウと、5体のサケの彫刻が設置されています。
多くの利用者にとって馴染みの光景となっているこの彫刻群は、釧路市出身の彫刻家・米坂ヒデノリの作品です。
会議室や実習室などの公民機能を備えた標津町生涯学習センター「あすぱる」。正面玄関前の広場に、彫刻群は設置されている
1934(昭和9)年、釧路市に生まれた米坂ヒデノリは高校卒業後に東京藝術大学彫刻科に進学。卒業後は釧路に戻り創作活動を続け、1987(昭和62)年に栗山町に移住。アトリエ兼私設美術館の開設や芸術文化の教育に力を注ぎ、晩年は再び故郷に戻りました。
栗山町や釧路市を拠点に、東京の最高裁判所大ホールの『神の国への道』や釧路市民文化会館前の『凍原』、北海道立釧路芸術館の『ミュージアム(頌韻/しょういん)』といった野外彫刻なども多数手がけた米坂ヒデノリ。
標津町との縁は、版画家・細見浩がきっかけとなって生まれました。
「標津町の川北小学校が開校70周年を迎えるにあたり、記念に野外彫刻を設置したいという話が持ち上がり、当時同小の教頭だった細見さんが芸術仲間である米坂さんに相談したのが始まりだったと聞いています」と話すのは、標津町議会の副議長・吉田智さん。細見浩とは古くからの知り合いで、米坂ヒデノリと標津町の関わりが深まっていくのを間近で見ていた人です。
「米坂さんが標津町を訪れるたび、酒席を共にしました。旅行の話、作品の話など、面白い話をお酒を飲みながらたくさん聞かせてもらいました」と懐かしむ吉田さん
「あすぱる」の館内にも、米坂ヒデノリの作品が多数展示されている。
写真左はサケの原版となった木彫の『回帰』。
写真右は吉田さんが初めて見た時に心打たれたという木彫『風の墓標』。「二つの十字架は一方が逆さになっています。この作品を見た時、江戸時代初期のキリシタン弾圧を描いた遠藤周作の『沈黙』を思い出しました。隠れキリシタンが拷問されている様と逆さの十字架が重なって、米坂さんに聞いてみたところ、「実はそういう意味も込められているんだよ」と教えてくれました」と吉田さん。作品の上部にある印は北極星を表している
川北小学校開校70周年の翌年である1986(昭和61)年。同小の敷地内に標津町初となる米坂ヒデノリの作品が建立されました。1969(昭和44)年に制作した『国境』という名の彫刻で、別海原野の開拓農地に取り残された木の切り株から発想を得たものです。
「米坂さんの作品には、北海道開拓における殉難者への鎮魂の祈りや、先住民たちの悲哀が込められています。川北地区は1912(明治45)年から1915(大正4)年にかけて入植した方々によって基礎が作られた土地。『国境』はまさに歴史ある川北の地にふさわしい作品でした」と吉田さん。
町内の砕石会社から原石を調達し、石の形を生かした台座も制作。大きな石の上に腰を下ろすこの彫刻は、歴史を築いた先人たちへの敬意と児童たちの未来に願いを込めて『開拓と顕学の像』と新たに名付けられました。
台座の石は米坂ヒデノリも砕石会社に足を運び直接確認した。高い台座から『開拓と顕学の像』が子どもたちを見守っている
「あすぱる」に米坂ヒデノリの作品が地元の建設会社より寄贈されたのは、1996(平成8)年。最初に設置されたのが、3体のシマフクロウでした。
同施設の初代センター長は細見浩。「川北小学校の時と同様、細見さんが仲介役を担いました。フクロウは叡智の象徴。町民が学びのために集まる施設になるようにという期待から3体のフクロウを並べ、『集い』と命名されました」と吉田さんは振り返ります。
芝生が敷かれた設置場所には、作品を囲むように若木を植樹。これはフクロウたちが森の中に佇む姿を想定してのことでした。
「米坂さんは、自分の作品が時間の経過とともに育っていく様子を確認するため、標津町にも足繁く通っていらっしゃいました。若木が成長し、やがて森のようにフクロウを囲む様子を嬉しそうに眺めていましたよ」。
1997(平成9)年、川北中学校前にも開校50周年を記念し、作品が設置されました。当時の50周年記念協賛会の役員達が、米坂ヒデノリに要望して実現したもので、作品は釧路市民文化会館前と同じ『凍原』です。
「空を見上げている姿が、前向きな印象があって良いということで選ばれた作品です。ただ、過去に米坂さんからこの作品の意図を聞いたことがあって、どちらかというと途方に暮れて空を見上げているものなんですよね」と、吉田さん。
本来の意図とは異なるのではないか、と気を揉む吉田さんに対して米坂ヒデノリが伝えたのは、「作品は作者の手元を離れると、その所有者が新たに意味を込めて独立するものだ」という言葉。
「彫刻が建つ環境、設置に至る経緯、所有者たちが込めた願いの中で、作品は変化するものだということを教えていただきました」。
校舎を背に空を見上げる『凍原』。吉田さんは「恵まれた自然環境の中で育まれる清く明るい校風と、輝かしい伝統を後世に継ぐかけ橋となるように」という願いを込めて『蒼穹の像』と新たに名付けました。
吉田さんが名付けた『蒼穹の像』。青空を背景に空を見上げるその様は、本来の意図から独立し、未来を願う希望に変わる
2003(平成15)年には、6体のサケの彫刻『回帰』が米坂ヒデノリより寄贈。「サケが故郷に回帰するという意図で制作された作品です。標津町は優良な漁場に恵まれたサケの町。この町に建つべき作品だということで寄贈していただきました」と、吉田さんは話します。
寄贈された6体のうち5体を「あすぱる」に設置。木々に囲まれて佇む3体のフクロウと、その前を流れる川をサケが遡上するという原始的な風景を再現しています。
彫刻群の一帯は、若木が繁り森のような環境に
残りの1体のサケは、川北の「ピリカの泉広場」の敷地に設置。ここには既に『コタンコロカムイ』という米坂ヒデノリのフクロウの彫刻があり、このサケもフクロウに見守られながら川を遡る風景として表現されています。
川北小学校を皮切りに、標津町にその数を増やしていった米坂ヒデノリの彫刻作品。
それは、米坂ヒデノリという彫刻家と標津町の交流の軌跡を映しています。
「ピリカの泉広場」のフクロウは抽象的な作品
米坂ヒデノリは2016(平成28)年4月1日に逝去。
その2年後には、米坂ヒデノリと標津町を結んだ細見浩もこの世を去りました。
「米坂さんは、自らスコップを持って汗を流しながら彫刻の設置作業を手伝うこともありました。作業後は米坂さんを囲んでビールを飲みながら、作品の話に耳を傾けたものです。威厳がありながらも親しみがあり、情熱のある方。作品の意図や背景について気さくに教えてくださるので、米坂さんとの会話にはいつも学びと喜びがありました。米坂さんと出会ったことで、私自身もその作品が何を意図しているのか、と思考を巡らせる楽しみを知りました」
「作品は作者の手元を離れると、その所有者が新たに意味を込めて独立するものだ」
町民の願いと祈りを託した米坂ヒデノリ彫刻群は、標津町に根ざし、町の歴史と未来を内包しながら悠久の時を刻み続けています。