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伝わる文化

日向神代神楽(ひなたじんだいかぐら)/士別市

幾度の伝承危機を乗り越えた岩手県から伝わる郷土の舞

2021.11.30 UPDATE
作る人

 
 黒塗りの面をつけて、烏帽子(えぼし)を被る独特な装束。太鼓の囃子(はやし)と共に扇子(せんす)と御幣(ごへい)を持ち舞うその様は、神々の実在を感じざる得ない迫力です。
 これは、士別市多寄(たよろ)町に古くから伝わる郷土芸能「日向神代神楽(ひなたじんだいかぐら)」の演目のひとつ「三番叟(さんばそう)」。多寄神社祭や多寄町文化祭などの地元の行事で実演されています。神代神楽は面をつけて『古事記』や『日本書紀』の神話を舞う神楽で、太鼓を打ちながら神語を謳(うた)う胴取(どうとり)と舞手によって演じられ、舞手の人数は演目によって変わります。
 日向神代神楽のルーツは、岩手県一関市に伝わる「大門神楽」と言われています。1908(明治41)年頃に、山形県から旧日向地区(現在の中多寄付近)に入植した青年たちが、岩手県から同地区に入植した阿部鹿蔵という人物に、娯楽として教わったことが始まりです。

三番叟は子孫繁栄を祝福して舞う健康長寿の翁を表すものとされていて、神楽の動きを覚えるための基本の舞の一つ。日向神代神楽では必ず初めに舞うことになっている

 大正から昭和初期にかけては、舞手が30人以上に増え全盛期を迎えた日向神代神楽ですが、戦時下に入ると戦争に人手が取られ、かつては二日二晩かけて舞い続けていた全ての演目も、舞手不足により困難に。戦後は神輿渡御(みこしとぎょ)に加わるために時間短縮が余儀なくされ、舞は大幅に省略されていきました。1957(昭和32)年には天塩川の切替工事により日向部落が解散。衰退し続けた神代神楽は、この年の士別神社での演舞を最後に一時途絶えてしまいました。

 再び神代神楽が息を吹き返したのは、それから16年後のこと。
 1973(昭和48)年、多寄青年団が主催する演芸発表会の出し物として神楽を演舞する提案があり、青年団のメンバー6名が名乗りをあげたことから、日向神代神楽の第二章が始まります。
 6名は神代神楽の伝承者宅に行き、教えて欲しいと直談判。「演芸会だけで辞めてしまうのならば教えない。神楽をこの先も伝承するならば教えても良い」との返答を受け、迷いながらも承諾。「ずっと続けますとは言ったものの、内心は一度だけ踊って解散しようと思っていました」と、6名の一人、浮須耕栄さんは当時を振り返ります。他の5名も同じ気持ちだったそうですが、いざ稽古が始まると「厳しいし、農作業の後だから体力的にもしんどかったけれど、6人で集まるのが楽しかった」と徐々に心境に変化が。演芸発表会で披露した、刀を持って舞う「三宝荒神(さんぽうこうじん)」も大好評で気づけば神楽にすっかり魅了されていました。こうして1973年、「日向神代神楽保存会」を発足。以来およそ40年間、保存会メンバーは稽古に励み、神楽の伝承を支えました。

左から愛好会会長の浮須さん、副会長の佐々木さん

 後継者の発掘と育成に力を注いだ保存会でしたが、担い手が現れず2012(平成24)年には高齢化のため解散を決定。一度は息を吹き返した神楽に、再び訪れた伝承の危機でした。
 しかし、「俺は踊るのが好きだから、一人でも続けようと思う」と浮須さんが声を上げ、たった一人の「日向神代神楽愛好会」が誕生しました。
 宣言通り、浮須さんが一人で舞い続けること3年。学校祭で日向神代神楽を舞ってほしいと多寄中学校から依頼が入ります。

「多寄中学校は生徒数が少ないため、学校祭の演目間の準備に時間がかかり、空き時間が出てしまいます。観客が飽きないように、何か繋げるものはないだろうかと考えて思いついたのが日向神代神楽でした」と話すのは、同校で校長を務めていた工藤朝博さん。「当時はラジカセの音で踊っていたんだけれど、それだと格好がつかないから一緒にステージに立ってほしい」という浮須さんの提案により工藤さんの参加が決定。「同じ頃、士別市立博物館の森学芸員が、元保存会のメンバーから太鼓を習い始めていて、翌年、私と森さんが愛好会に入りました」と工藤さん。3人となった神楽愛好会は、学校祭や多寄町民文化祭、教育委員会の事業も手伝うようになっていきました。「私は山形県出身で、森学芸員も士別の人間ではありません。よそから来た人間が郷土芸能を舞う姿に、当初は複雑な思いを抱く町民もいたと思います」と工藤さん。しかし、活動が広がるにつれて人々が自分たちの舞を喜んでくれているのを実感できるようになったといいます。

工藤さんは現在、愛好会の事務局を務める

 「私は伊達市出身で、故郷にも仙台地方の伝統を引き継いだ“仙台神楽”があるので、日向神代神楽に興味を抱きました」と話すのは、現在、愛好会で太鼓を担当する士別市立博物館の学芸員、中村圭佑さん。2ヶ月近い猛特訓を経て、2018(平成30)年11月3日に行われた文化祭で初舞台を踏みました。中村さんからの誘いを受けて愛好会に入ったのは、士別市教育委員会の田中介さんです。「私は標津町出身で、愛好会には友人づくりも兼ねた気軽な気持ちで入会しました」と話す田中さんは三番叟(さんばそう)を担当。想像以上の運動量に練習中はいつも肩で息をしていたと言いますが、2019(平成31)年7月10日の多寄神社祭礼で初舞台を経験すると「町民の方が喜んで拍手をする様子を見て、神代神楽は町に根付いているものだということを改めて実感しました」と、神楽が町にもたらす力を目の当たりにし、続けていくことの大切さを再認識したと話します。
 地域の行事にも多数参加するなど、注目を浴びる機会も増えてきた中、多寄中学校が2020(令和2)年3月に閉校することが決定。閉校式典で全校生徒に日向神代神楽を舞ってもらうことになりました。

士別市立博物館で談笑する愛好会の若手チーム。左から愛好会の事務局長でもある中村さん、上總さん、田中さん

 指導を担当したのは、愛好会と元保存会のメンバーたち。子どもたちに熱心に指導する姿に胸を打たれた関係者が愛好会に加わるなど、閉校式を前に神代神楽はさらに活気を取り戻していきました。
 大盛況で終えた閉校式後、さらに嬉しい出来事が起こります。閉校式で舞った経験をきっかけに、保存会メンバーを祖父に持つ男子学生の一人が入会を決意したのです。
「中学校の閉校式で舞った経験が楽しくて、神楽を続けていきたいという気持ちが芽生えてきました」と、最年少メンバー上總郁弥さん。昨年の中多寄神社で舞った三番叟が初舞台で「舞を覚えるのは大変だけれど、上達していくのがとても嬉しいです。今は、宝剣納めの素盞嗚命(すさのおのみこと)を練習中です」と、確かな手応えと舞う喜びを感じながら日々技術を磨いています。

撮影にご協力いただいた日向神代神楽愛好会の皆さん

 保存会のメンバーも加わり、愛好会は現在12名。半数以上が30代以下という若者中心のグループになりました。生まれた土地も、年齢も超えて受け継がれていく日向神代神楽の今を見て、「かつての保存会のメンバーは全員この地で生まれ育った人だったので、後継者もそうあるべきだという頭の固さが私たちにはあったのかもしれません。工藤さん、中村さん、田中さんなど、外から来た人たちが伝承を支えているのを見て、そのことを改めて実感しました。そもそも日向神代神楽は山形から入植してきた人間が、岩手から入植してきた人間に教えてもらったものですからね」と語る副会長の佐々木博さん。土地の個性や、人々との出会いを糧に日向神代神楽は受け継がれていきます。

監修/角 美弥子(北海道教育大学岩見沢校准教授)

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