令和7年3月10日(月)に開催した最終審査会の結果、次のとおり受賞作品が決定しました。
大賞 | 『かいころく -工女編-』 | 私道 かぴ | (東京都) |
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優秀賞 | 『長い正月』 | 石崎 竜史 | (埼玉県) |
『みえないくに』 | 鈴木 アツト | (東京都) |
※最終審査員の選評は3月下旬頃ホームページで公表します。
※大賞受賞作品は戯曲賞受賞記念公演として、令和8年度に札幌市内で上演を予定しております。
今年度で第11回目を迎えた「北海道戯曲賞」は全国に門戸を開き、次代を担う劇作家や優れた作品を発掘するとともに、道内外の作家が互いに競い合うことにより、北海道における演劇創作活動の活性化を図ることを目的としています。 また、大賞受賞作品は受賞記念公演として上演し、道民の皆様に良質な演劇作品の鑑賞の機会を提供します。
主催 公益財団法人北海道文化財団
後援 北海道
協力 日本劇作家協会北海道支部
5年勤めた審査会参加も今年で最後。スマートじゃない選評を残しておきます。
「優秀賞」って何なんだろう?
今回は最終選考作品5作品のうち、大賞1作、優秀賞が2作となった。私道さんの『かいころく』を大賞とするか優秀賞とするかの協議のさなかに、『みえないくに』と『長い正月』の二作を優秀賞にする提案がふと現れた。『みえないくに』と『長い正月』のいずれか、ではなく。最終的には、『かいころく』の単独受賞か、プラス、二つの作品の受賞をセットするかしないか?の多数決が行われた。これ、どこか変ではなかったろうか。
大賞が1位で、優秀賞が2位というわけでもなく、「大賞」「優秀賞」の位置づけや意味あいは、毎年ごとの審査員の考え方と協議によって変化する。たとえば評価が平均的に低くても誰かひとりの超積極支持があったら「優秀賞」になることも協議によってはありうるかもしれない。そういうときの「優秀賞」はきっと「審査員特別賞」とか言った方がその意味合いを適正に表すだろう。
今回、私道さんの『かいころく』に対して、積極支持も消極支持も消極不支持もあった。その詳細はさておき、強めの積極的不支持がなかったことからも「大賞」の俎上に上がった。その後この作品を、「大賞」とするか「優秀賞」とするかの協議があった。では、その区別とは。「大賞は北海道で上演の場が用意される」「優秀賞は用意されない」という違いが今回の判断基準となった。そこで「上演」に対する各位からの想像や考えを持ち寄った結果、「上演」する場合の「戯曲賞」としての意味付けを、ほぼ全員が(あらゆる面から)ポジティブに考えられたことで、この作品の「大賞」が決定された。たとえその「上演」に不安要素がゼロではないとしても、それを凌駕した「期待」や「可能性」を信じての「大賞」であったと思う。
いっぽう、今回の「優秀賞」とは何なのか。『みえないくに』『長い正月』について「二つとも優秀賞に」と提案をした審査員は「幸せになる人がひとりでも多い方がいい」とも表明していた。「幸せになる人」とは誰のこと?つまり「賞をとる」作家が増えることの幸せについての言及だった。わたしは、ここがとても引っかかっていて。別の場面で、賞の意義について「作家の育成」と触れた審査員もいたし、戯曲賞の審査員を務めることを「作家の人生を背負う責任を感じる」と話す審査員もいた。「戯曲賞」への考え方はそれぞれの正しさだとして、そういうのが5人分持ち寄られて、さらには「戯曲」への考え方も5人分持ち寄られて、できあがっていくような、つまり審査結果はそれぞれの審査員のポリシーが詰まったアソートボックスみたいなところある。だから毎年バラエティに富んじゃうのは当たり前、それはよい。でも今回に関しては、最終の「優秀賞」を二つにするかしないかの多数決を行ったことは、「戯曲」ではなく「戯曲賞」へのポリシーが影響してしまった結果なのではないかという違和感だ。そこは多数決による決定で本当によかったのか?ならば多数決の前に、残りの2作品についても「戯曲」ではなく再度「戯曲賞」として考える時間が必要だったのではないだろうか。「戯曲賞」が作家の幸せを増やすためにあるならば(もちろん今回の審査員が全員そう考えていたわけではない)、今回の審査結果は大賞1作、それ以外の最終選考に残った4作品を全てに対し「優秀賞」を贈ることが、理にかなっていたのではないかと思う。何度も言うが、「戯曲」ではなく「戯曲賞」ポリシーが、今年の優秀賞の、判断基準ならば、だ。
わたしは反省する。優秀賞の石崎竜史さん、鈴木アツトさん、と共に、受賞を逃した山本タカさん、岡本拓也さんに対しても、優秀賞の意味あいとして「おめでとうございます」と表明したい。
ところで選評に際し、私自身のポリシーを言わせてもらうと(ごちゃごちゃうるせぇこと言うよ!)。北海道戯曲賞は、北海道文化財団主催の、道民の税金が財源の戯曲賞って前提がある。そこは、出版企業・白水社が主催する岸田國士戯曲賞と大きく違うところかと。作家の幸せよりも、道民の文化的幸せを考えるのが筋かと思うのだけど。作品(文化芸術)へのアクセシビリティを高めるのはもちろん、通常・個人ではアクセスしにいくような作品を届けるチャンスでもあると考える。それは本来なら商業シーンでは隠れてしまいそうな作品、でも確実に文化の一端であり社会の一部として忘れてはいけない作品を掘り起こすことが、この「北海道戯曲賞」ではできることなのではないか。と、わたしは、大マジに考えている。作家個人の幸せだとか、作家の人生への考慮などが、優先順位を高めてしまうと、それって「作家至上主義」になってしまわないか?とも警戒する。
以上の私のこうるせぇポリシー基準からすると、優秀賞のひとつ石崎竜史さんの『長い正月』は通常アクセスできそうな・つまり商業シーンが好みそうな作品だと、「北海道戯曲賞」として評価する一票は投じなかった。この作品は、100年史という手法も含めて、そのセリフ表現諸々が、エンタメテンプレート的であると感じた。家族にとっての幸せの追求・その喜怒哀楽あれこれも、観客の共感を誘発しやすいありふれ方で描写しており、ありふれてない像の追求は乏しかった。ありふれた幸せに幸せを感じることも、それを描くことも否定できない。でも、そのような作品を称賛し続けることは、不幸や幸せについての個人的価値観の多様性を拒む構造にもなりうる。戯曲は、ありふれた価値観を再生産していることに無害でいられるだろうか?この戯曲の大衆社会性は高い一方で、現代社会への責任意識は薄いように感じてしまった。
最も引っかかったのは、中島みゆきの「時代」の使い方。バラエティ番組のラストシーンならば視聴者を満足させる可能性が多いにあるけど、わざわざ劇場で、別れ/出会い/変化/成長/苦悩エトセトラを集約させた感動歌謡「時代」を、家族時代史のラストとして劇場スピーカーから流されたら受け止められないなぁ、といち観客として想像した。この使い方では大衆的なるものに対する批判性が皆無に見えてしまう。さらに、「死」を「退場」と重ねる死生観であるとか、上手と下手で見える「生」との直線関係にも、首を捻った。
優秀賞のもうひとつ『みえないくに』。鈴木アツトさんの戯曲を読むのはこれで4度目だが、ぶれない卓越主義…それはいいような悪いような。この作品そのものが「作家至上主義」なところが多いにある。しかし、一方で、今後(今もか)、「弱者男性」の物語は一定の権利をもって増殖傾向を辿るであろう予感に懸念がある私としては、この作品から滲むような…エリート精神が支える戯曲(と私は感じる)、はとても貴重だと思うし、リーダーシップとしての必要性を感じる(と同時にそれは特権意識ではないかとも危ぶむ)。今作は言語を創り出す作家から発生していくナショナリズム高揚問題。と簡単にまとめてしまうのもどうかと思うが、鈴木氏はこれまでも芸術にやどる「光と闇」を描き、それが政治や外交に利用されうる危険性について描いてきたはず。これまでは「光」がメインで「闇」がぽっと現れ、主人公たちや周囲の人物が悩まされる…でも「光としての希望をもつ」、のがストーリー運びの傾向だったけど、今回は堂々と「闇」側が主体。それによって「芸術(今作は言葉)」が宿す暴力性・その宿命に焦点が当たっていてよかった。
ただ、戦争で国がなくなった跡形の地で、薔薇の「美しさ」の方に眼差しを向けるのはどうなのだろう。やはり、これまで読んだ作品と変わらず、光としての希望を信じているような描写に感じた。それはよい。としても、この戯曲を手放しで称賛できないのはなぜだろう、と考えた。
戦地に残った風景の中に、1本の薔薇を選ぶことだ。ちょっと夢想家・ロマンチスト過ぎやしないだろうか。むしろ転がっている死体の方を見つめるのが作家じゃねえの?と作者と大真面目に議論したい。
山本タカさんの『猛獣のくちづけ』。イヨネスコの『犀』に触発された戯曲だそう。余談、この機会に初めて『犀』を読みました。名作戯曲とめぐり合わせてくれてそれだけでもありがとう、とまずはリスペクトしたい。(わたしの教養貧困魂を刺激してくれる)
『犀』のグロテスクさに比べ、ワニへの変身はどうもポップに、キャラクターっぽく感じてしまうのは、どうしてだろう。犀の象徴とされた「全体主義に盲目的に従ってしまう人間の変貌」はその歴史的背景をも想像すると、胸をえぐられるような恐怖の警告だった。
現代日本で、現在進行形の社会を背景に、あらゆる考慮から「ワニ」を選んだのだとしても、人間や社会に対する切実さや恐怖・やるせなさはほぼ浮き上がらず、「ワニ」はただパニックドラマを成立させるための材料としてしか機能してないし、ドラマをユーモラスに機能させるためのワニでしかなかった。だったら「カバ」のほうが、パニックがよりユーモラスになりそう…とか余計なお世話な提案をしたくなる。それと、男性同士の接吻を「無意味」と評しながら、描写するのは、少し無邪気過ぎるかも。『犀』の接吻からの想起ならば尚更。
エンタメドラマのようなシナリオ運びが山本さんの基本なのだろうか。この(戯曲というより)シナリオとして優れている点は「ペヤング、ちょっと食べたくなるな・・」と思わせるところ。脱力系貧困生活賛歌にもなりえそう。あるいはペヤング焼きそばのコマーシャルとかですね・・
岡本拓也さんの『超現代』。この町のベーシックインカムに継続性がないものならば、その政策はただの移住者寄せ広報でしかなく、そういう政策を選ぶ地方自治体の不適正さへの批判なく、ただ、移住者・貧困者側のぼやきや恨み節が続き事件が起きて…と、これでは「愚策に踊らされた愚民の悲劇」のようにも見えてしまうが、それでよかったのだろうか。災害による死も決して個人たちの責任ではないような気がするんだけど(そんな自治体なら死者も出るだろうよ…)。
気になったのは、登場人物のほとんどはベーシックインカムに頼る以前に、貧困に対して無自覚レベルで卑屈が及んでおり(意識的に自虐する者もいるが)、彼らの心のやせ細り状態は、ベーシックインカムがあろうとなかろうと、本質的には変わらないように、伺えたことだ。ベーシックインカムが「なくなる/なくならない」で、「状況」の変化はあっても「状態」の変化はそこまで起きてない。起きてないのにも関わらず、集会室でのやりとりが続くので、第一幕と第二幕は登場人物たちの状況説明シーンが永遠と続いているようだった。
人物たちの多くに他者やものごとに対する軽微な軽蔑を孕む言動が節々にあり、その根深さたるや。みつ子の遺品整理を善行のように行うのも、「善行」に対する錯誤ではないかと思えてしまう。
もしそれらが「貧困」がもたらす様相のひとつならば、彼らの心の「状態」について、この戯曲創作を通じて、もう少し見つめる必要があったのではないだろうか。
私道かぴさんの『かいころく -工女編-』。お経のように続く、単調なモノローグに、狂いそうになる。私の感覚では、セリフとゆうより文章、表現とゆうより説明が続く。観客への感情概念が全く存在しないかのような、人間的ぬくもりのなさ。それを肯定するか拒否するか、三年前に最終選考に残っていた「犬が死んだ僕は父親になることにした」の読後に何度も逡巡しつつ「受け入れた」ように今回も全く同じように今も逡巡するが、前回よりもはっきりと肯定しようと思う。
二読目まで全編フリー素材のようなテキストとしか感じなかったが、三読目は、審査表にあった松井さんのコメント「残酷さ」に注目した(松井さんありがとう)。すると不可解で不気味ですらあった体温のなさが一挙に反転した。chat gptのなせる技かのごとく言葉の選別のぬくもりのなさは、批判的な意味合いをもつゆえの「無感覚さ」だと気づいた。たとえば「掟」「働き手」。俯瞰したテキストで使われると、その無感覚さに驚くが、その無感覚さこそ、それ自体が作者の、あるいは「ゐと」の主観そのものだと受け取れる。
二読目までは、「ゐとは蚕の仕事で一生を終える自分を、孫にかわいそうと言われるまで、気づかなかった」と解釈するくらい、「ゐと」の感情は見えなかった。三読目にしてその感情の見えなさが、達観とも諦念とも違う別次元レベルからの冷めた俯瞰によるもの、と気づく。その俯瞰はおそらく作者自身の目線の可能性もあるが、主人公の身体に宿るその俯瞰状態そのものが、ずっと批判的身体でいる、とも受け取れるのだ。しかし、ゐとは表立って格闘しない。もがきもしない。「本能的にずっと引っかかっているけど、その感情を表す術がない・ゐと」に見えてくる。そのうえで、やっと孫から客観されたタイミング、それ「今言われても」な絶望は想像を絶する。二読目は、どうして自分のものではない義父の蚕道具を、勝手に燃やしてしまうのか!と突っ込んでいたが、燃やしちゃうくらいの話・絶望だと三読目は解釈した。
ところで、「掟」という言葉を選んだゐとは本能的にその言葉を選び発している方が、状況としての根深さがより深まるが、作者の私道さんが「掟」という言葉を本能的に選んでいるのか、意図的に(批判的な意味を込めて)選んでいるのかはわからない。ト書きとセリフの選別がシームレスにある中で、セリフとしては生かされずト書きの方に選別されたテキストの違いも、作者にぜひ聞きたい。
とにかく、やさしくない戯曲だ。ゆえに読者からやさしく向き合わなくてはならないのが欠点かもしれない(やさしさ、という言葉が適正かも今はわからない…)。テキストは多いのに、肝心なことは、違う色の砂を一粒だけ混ぜた砂時計の中から、その違う色の砂を見つけるような感覚じゃないと、拾えない。一瞬で落ちていくから、ひっくり返して何度も読む。それくらいこの戯曲にある呪詛の全ては拾いきれない。あと10読くらいしなきゃいけないかもしれない。狂った本ではなく、狂わせられる本。
私道さん、大賞の受賞おめでとうございます。
初めて北海道戯曲賞の審査員を務めさせていただきました。こういう審査員を務めるたび「よい戯曲」とはなんだろう「劇作家の役割」とはなんだろう、と立ち止まる機会を与えられます。5作品を読んでみて感じたのはやはり、物語を終わらせることの難しさです。登場人物たちの日々は続くのであり、こちらの都合でなんとか了をつける。そのつけどころを見極めるのは本当に難しいですよね。残念ながら今回は、これは見事な着地!という終わらせ?には出会えませんでした。しかしながら非常に読み応えがあり、読み進めるには十二分に推進力のある5作品でした。
『みえないくに』
侵略戦争を起こした国の文化をどこまで擁護し寄り添えるものなのか、また傾倒する人物が自分のイデオロギーとずれたとき、人はどういう思考でどういう行動をおこすのか、などなど読み手にたっぷりと考えさせる問題提起のしかたは見事でした。私も読んでいる間、作者の言葉を借りるならば「全部が戦争と繋がってる」と実感するヒリヒリした時間を過ごしました。読み手にこういう時間を与えられたということは、もう成功ではないでしょうか。ただ、あきらかに現在進行しているロシアによるウクライナへの侵略をモチーフとしているので、現実の生々しさに比べ戯曲全体にただよう耽美な印象にはやや忌避感を抱きました。また、育った環境や暮らしぶりによってその人の選ぶ語彙や喋り方があると思うのですが、その解像度が低いです。そのため、パーソナリティが見えてこず、人物が本のために(作者のやりたいことのために)動かされている印象が強かったです。たとえば女子高生が「いかようにも」といった言葉使いをするのですが、これは作者の語彙力であってその子のものではないと感じました。突然出てきた若者の無邪気なふるまいで「希望っぽい」ラストを迎えているのも少し残念。苦しくてもこれまで会話を積み重ねてきたメインの登場人物だけでなんとか終幕してほしかったです。そこに希望がなくても。
『猛獣のくちづけ』
一幕では今の社会をよく描写していると感じました。行動範囲が狭い割にさらさらとした人間関係を築いていて人生のアンカーがない。思わず祈りの対象を「ペヤング」にしてしまうあたりにこの本の良さである、虚しさと愚かしさとおかしみがありました。二幕は一幕の冗長なエピローグのように感じられ、蛇足でした。作者の好みでしょうが、実際の商品名や呼称を多用しすぎです。それらの持つおもしろさは簡単に「ヌキ」や「身内笑い」を生みますが、それらを使うと、一度現実にひゅっと戻されるかんじがありますし、同じ文化圏でない人がふるいにかけられる不愉快さを伴います。その危険性を意識し、もっと精査して使用したほうがいいかもしれません。安易にそこに手をつけないでじっくりとセリフを重ね、人間関係から自然発生する笑いを待つか、もう少し普遍的な言葉遊びができればもっと読み応えのあるものになると思います。
『かいころく -工女編-』
丁寧な取材の跡が見て取れ、歴史とその時代を良き抜いた人々への敬意を感じました。その作者の真摯な姿勢にこちらも思わず居住いを正す。そんな戯曲でした。気になる点は、この戯曲自体がすみずみまでコントールされていて均一な光で照らされていることです。史実ベースとはいえ客観性が強すぎて、誠実ではあるがオリジナリティはどこにあるのだろう…という印象を受けました。主人公が最後まで「多くの女」「時代の代弁者」に徹底しているので、主人公の個としての発露がみたい、一瞬のオフバランスが見たいと願ってしまいます。これだけの筆力がありますので、人物が作者の手を離れるような、一瞬自分の枠を外れるような、無理をしてほしいです。できればびっくりしたい。とはいえ巧みな語りと過不足のない情報で構成されており、手練れといいましょうか、どっしりと安心して読み進められる。大賞にふさわしい、上演する価値のある作品だと思います。おめでとうございます。
『長い正月』
ともすれば冗長になりがちな平凡な一族の栄枯盛衰を「生と死」の出入り口を設けることで読み手にハラハラさせる手腕は見事。演劇的でとてもよくできていると思います。中身はとくに新しさのあるドラマではありませんが、会話が心地よく、読み終わったあとには不思議と癒されている感覚が残りました。定点観測をよくぞここまでエンターテイメントに昇華し、平板を恐れず己の筆力を信じて書き切ったなと思います。二幕冒頭の乱暴なモノローグの挿入で時間がぐっと進んだのは残念。なんとかこの10年分も会話で魅せてほしかったです。それをやり遂げてこその100年なのでは。またラストの、実際と虚構の入り混じった走馬灯のような100年ダイジェストは作者からの一方的な感動の押し付けを感じ、少々過食ぎみになってしまいました。これまでの積み重ねを信じて、家という「ハコ」をじわっと見せるだけでその効果はもっと豊かに、観客それぞれの手元に渡ったのではないでしょうか。
『超現代』
コミュニティに属する安心感とそれにより責任が分散する危うさを描いていたのはおもしろい着眼点でハッとさせられました。セリフ運びも自然で上手く、度々登場人物の口から出てくる生活にまつわるお金の額がリアルで、その町でギリギリ生活できている様子が難なく想像できました。登場人物9人全員がそれぞれが困窮しており、少々の立場の違いはあれど同レベルの弱者であるという…なぜわざわざこんな難しい設定にしたのだろうと思いました。そのせいもありますが、このコミュニティが次々と困難に直面しているにもかかわらず、それが多角的な視点で語られることはなく、すべて一元的になっています。「みつこ」の病気と死も”脚本にとっての装置”という印象で、その装置によってエモーショナルに畳み掛けるラストは少々乱暴にかんじました。最後は夕陽とススキ野の中に全員が消えてゆき、視覚に訴えた終幕を迎えるのですが、せっかくここまで会話で繋いできたのに急に手を離されたようなさみしい感じがします。会話が書ける作家さんだと思いますので、どうかもう一絞りして会話で着地するところが見てみたかったです。
選評するのも人間ですのでやはり好みがあります。序盤思ったより意見が割れて、このバラバラの状態でどう決着をつけるのだろうと思いましたが、好みどうこうを押さえ込む強度のある作品が残った。収まるべきところに収まった。という印象です。話し合いによっ自分の評価がどんどん変わるのもおもしろい体験でした。最後に。この戯曲賞に応募しているということは順番をつけられる覚悟のある方ばかりだと思いますので釈迦に説法かもしれませんが……どうか賞レースで傷ついたり賞レースで疲弊しないでください。いい戯曲がいい上演台本とは限りません。なぜか賞には箸にも棒にもかからない作品というのが世の中にはございます。役者の身体を通してこそ生きてくる作品というのは、確実にあります。ご応募いただいた107作品はどうか上演を検討してみてください。別の価値が見えてくることがありますので。
『超現代』
ifを設定し、その中で社会問題を絡めながら人間関係を丁寧に描いているし、読みやすい。ただ、地方行政、移住、地元の祭り、災害、そして死、というパーツを組み合わせた戯曲は沢山ある上に、類似作品と大きな差がなく、予想のつく展開が何度かあったのが惜しい点でした。これらの題材を扱えば、似たような展開になってしまうことこそが、現実社会での問題解決への困難さをあらわしているとも言えますが。
現実に起きている問題がこの戯曲を書かせる原動力になっているとして、では、戯曲、すなわちフィクションの側から現実に作用した力がこの戯曲にあるのか。現実へのリアクションとしての戯曲だけではなく、戯曲のリアクションとして現実を動かせるパワーをもっと感じたかったです。
『猛獣のくちづけ』
登場人物の孤独を、くだらない言動で表現、展開していくのは非常に好みでした。孤独の傍に常に自嘲気味の笑いを置くことで、より孤独を引き立てる構造は成功していると思います。しかし、それでもまだ登場人物の孤独が足りないと思ってしまいました。誰しもが幾ばくかの孤独を抱えて生きているもので、なにか臨界点を超える出来事が欲しかったです。
中盤以降の荒唐無稽さは、その乱暴な展開こそがおかしみにつながっているとは思いますが、変な現実なのか、夢と現実の挾間なのか、現実ではないのかを、もう少し明確に理解したかったが読み取れませんでした。どの立ち位置から読むかで〝ワクワクの荒唐無稽〟にも読めるし、〝ご都合主義〟にも読めてしまいますし…。そういった意味でも、キーワードである〝渡良瀬川〟をもっと書き込む必要があったのではないかと思います。現実社会から逸脱していった人々が集まるこの場所は、現実からどれくらいの距離のある川なのかを知りたかったです。だって舞台は架空の町となっているのに、渡良瀬川は渡良瀬川なんだから。
とはいえ、何かを食べたくなる戯曲はいい戯曲なので、ペヤングを食べたくなるこの戯曲はいい戯曲だと思います。
『長い正月』
ある一族の正月を100年描くというアイデアはとても面白いと思いました。千葉雅子さんの戯曲に〝ある一族の500年を描く〟というのもありましたが、「長い正月」は100年が、シームレスにつながっているところも面白さを引き立たせています。しかし、そのアイデアを実現するために、しきりに「あれはもう3年前…」とか「もう10年以上前の話…」という台詞や、時代ごとの商品、流行などの単語が繰り返されるのが気になりました。せめてもう少し話を進める会話と馴染ませて欲しかったです。100年分の説明台詞を聞かされている気持ちになってしまいました。100年間で描かれる人間関係も、上澄みをすくっただけのような印象で、郷土史料館の展示と変わらない情報量と言ったら怒るかもしれませんが、もっと作家として、このアイデアに貢献できることはあったと思います。冒頭、大正12年の多摩の家族が昭和20年代の鎌倉のような口調で話すのも気になりました。武州弁から始めて100年分の言葉の変化を見たかったし、100年くらいじゃ変わらない神社といういい比較対象があるのに効果的に使われているとは思えなくてもったいないし、それからそれから…と、具体的なアイデアが次から次へとわいてくるのは、基本のアイデアがやっぱり秀逸なんだと思います(出来たものに口だすのは簡単ですね)。優秀賞、おめでとうございます。
『みえないくに』
架空の国(グラゴニア)やその国の言語(と匂い!)を創造して、そのフィクションを軸に、現実をあぶり出していくという試みは、それこそ作家のやるべきことだと思うほど素晴らしく、読んでいて非常にワクワクしました。昨年、優秀賞を取った「犬と独裁者」と同じく、いい台詞が沢山あり、パンチラインが見事です。嫉妬します。グラゴニアでコーヒーが獲れるのも、筒井康隆の「旅のラゴス」みたいでよかったです。やはり架空の国はコーヒーが美味くなきゃ。
個人的には6場から急に失速したように思います。活き活きと登場人物を立ち上げたのに、肝心なところで、作家自身の手の平の上でコントロールしようとしている印象でした。用意しておいたラストへ向けて収束することが第一優先になっていると言いますか。その頃には、登場人物達は読み手である私の心の中で躍動していたわけで、「作家だからって勝手に取り上げないで!」と思ってしまいましたが、私のわがままでしょうか…。
とにかく、二回続けての優秀賞ですが、次こそ大賞…というか、賞なんてどうでもいいから、大傑作を書いてください。期待しています。
『かいころく -工女編-』
芯のある戯曲でした。音数が整えられたリズミカルな言葉を、しかし抑制しながら扱っている。刻むように書いている。取材と資料本とwikipediaの匂いを感じる戯曲が多かった中、この戯曲も明らかに取材の成果であるとは思いますが、自分の言葉にしている。そこに作家の血肉を感じました。また、終始、俯瞰的な視点ではあるが、(作家が陥りがちな)傲慢な神の視点ではなく、登場人物と一緒に濁流に流されているような諦観が要所要所の小さな幸せと残酷さを際立たせている。決して作家の下心でドラマを盛り上げたりしないことが、登場人物への敬意を感じました。
大賞に推す際に一抹の不安があったのは、この戯曲は上演しても面白いのか、という点です。私は北海道戯曲賞に関して、〝大賞受賞作品は、受賞記念公演として上演し、道民の皆様に良質な演劇作品の鑑賞の機会を提供する〟という点に非常に意義を感じて審査委員を受けたので、戯曲単体の魅力はもちろん、上演作品としての魅力も気にしています。この戯曲の上演は非常に難易度が高いことが想像され、私の脳内では、その難易度を乗り越え、観客が息を呑む瞬間まで想像できましたが、審査会で様々な意見が出る中で、少々先走った思い込み、勝手に見た幻かとも思いました。しかし、幻だとしても、私に幻をみさせてくれた戯曲の強度は本物であると思い、大賞に推しました。おめでとうございます。
今年で四回目の審査員ですが、今年も全部個性的で面白い戯曲だと感じました。戯曲というものは上演されて初めて価値を生じるものです。それぞれの上演がどんなものか気になりました。それはつまり面白い戯曲であったということだと思うのです。選評はあくまでも一つの感想に過ぎません。どうかそれぞれの作者さんは、自分の信じる道を貫いて欲しいと思います。
『みええない国』
最終候補の常連の鈴木さん。四年連続で拝読しました。連続するというのは本当にすごいことですので、その時点で尊敬に値すると思っております。今回は評伝劇が続いた例年とは少し趣が変わっていましたが、やはり安定した筆力を感じました。辞書すらない少数言語の翻訳者が、辞書を編むという設定がとても面白く、また引き込まれました。しかもこのグラゴニアという架空の国が、戦争を起こし、登場人物たちもそれに巻き込まれていくという流れがとても興味深いものでした。実際、ロシア・ウクライナ戦争が起こって以降、我々は国と国が領土をめぐって戦争をするということが、この現代でも起こりうるのだということを知ってしまいました。戦争というリアルにフィクションで抗おうという作者の視線を感じ、大いに共感しました。私はグラゴニアの設定も、非常に納得のいくフィクションで良いアクセントになっていたと思います。その設定に作者の胆力と、確かな世界観を感じました。みみっちい小さな嘘ではなく、説得力のあるフィクションになっていたと思います。やや終盤に向けて尻すぼみになった印象を受けましたが、戦争という大きな事象を前にすれば、安易に結論を出すよりは誠実なのかなとは思います。しかし、それはそれとして、もう少し主人公の飛躍に寄り添いたいという欲求は残りました。なぜグラゴニアに行くことを決意したのか?この辺りがもっと丁寧に描写されても良かったのかもしれません。
『猛獣のくちづけ』
こちらも二年連続の山本さん。発想が昨年に続き私好みです。動物好きの私は、小学生の頃、地元の川を見るたびにそこにワニがいる風景を夢想しました。渡良瀬川にワニがいるという設定は、その私の妄想そのものでとてもとても面白く感じました。いわゆる弱者男性の孤独と、現代人の心に潜む病巣。それを可視化させたものが「ワニ化」ということになるのでしょうか?その突拍子のなさがナンセンスコメディ的であり、あまり重くならずに物語を追うことができました。どうやって舞台でワニとワニ化を表現するのかということもわくわくさせてくれました。ただ人がワニになるというアイデア以外の部分が、やや弱く感じられてしまったのがもったいないところです。もっとナンセンスに振り切れても良いのだと思います。せっかくの設定が、ドラマの部分が乏しいことによって悪目立ちしてしまってるようにも読めました。その一方で、現代人の心を題材とするなら、もっともっと地味な話でもよかったのだと思います。ワニを捨てて、地味に地道に描くことでリアリズムに徹すれば、この登場人物たちが本当に抱えている問題が浮き彫りにすることができるとも思います。だって現実にはペヤングに何を祈ろうとも世界は一ミリも変わりはしないのですから。何を言いたいのかと、どう見せたいのかが、やや喧嘩しているように感じます。この辺り、更に突き詰めて考えていただきたいと思いました。
『かいころく -工女編-』
一番戯曲っぽくない戯曲のように感じました。これも強烈な個性だと思いますし、私はこういう形式の演劇も面白いと思います。独特の温度のなさというか、作者目線を見せず、淡々と物語が紡がれていくのが印象的でした。近世から近代への過渡期に、養蚕業が日本の社会でどう存在していたのかが非常に細やかな事柄を中心に語られていくのがとても面白かったです。私は基本的にあらゆる歴史が好きな人間なので、こういう手触りの作品がとても好きです。過不足のない下調べが、作品の厚みに繋がっていたと思います。ごく平凡な女性の一生を通し、社会の変遷をわりと長いスパンでそれとなく分からせてくれるスタンスが絶妙であったと思います。ただ視点があまりにミクロ過ぎることにはある種の不満を持ちました。「生糸」というものは明治日本にとってどういうものだったのでしょう?それは明治初期において、唯一国際的に競争力のあった生産物だったのです。だからこそ、官は生糸の生産を富国強兵政策の一環として奨励し、過酷な工場労働が生まれ、女工哀史のような悲劇が生まれたのです。「女工哀史は大袈裟」「女工たちは昔を懐かしんでいい時代だったと言っている」私が高校生の頃には既に存在した言説ですが、生糸工場で死んだ女工は懐かしむことさえできないことには思いを馳せ続けたいと思います。そりゃ、女工たちは日本で一番早い時期に社会参加できた女性たちとも言えます。死ななかった女工たちは、誇らしかったでしょう。嬉しかったでしょう。当事者はそうあって当然なのですが、後世の第三者までがそうでいいとは私は思いません。歴史への批評性はあってしかるべき、作品から見えてしかるべきだと私は思います。蚕を回顧するのは良いのです。それがこの作品の面白さだと思います。しかし、蚕をただ懐古することは、存外「大日本帝国万歳」と近距離にあるということが言えると思います。その点以外、とても好みの作品でした。もちろん大賞に値する作品であると評価いたします。おめでとうございます。
『長い正月』
これこそ上演が是非とも見てみたい戯曲だと感じました。「百年どんどん過ぎていくってどういうこと?」と思いながら読み始め、ルールを理解して「あ、なるほど!」と思い、読み終わる頃には自分自身も百年を駆け抜けたような気持ちになりました。そういう意味で、仕掛けがとても機能している戯曲であると言えると思います。百年の間に、戦争、敗戦、経済復興、家族関係の変化という時代時代の問題が自然に持ち寄られ、この百年の間に大きく変わった日本社会と日本人に気が付くという巧みな構成に深く興味をそそられました。また、全然小難しいわけではなく、むしろエンターテインメント性を最初から最後まで失っていないことも評価できると思います。出てきては成長し、歳を取っていく登場人物たちも全体的に好感が持て感情移入が簡単にできるました。私は特に宮司親子克也と春彦が、隣人としてうまく機能しているように感じました。物語に良い刺激を与えていたように思います。しかしながら、ずっとこのような百年の表面を撫で続けるようなやり方ですと、どうしても時代の描写、それぞれが抱える問題の描写が表面的になってしまうように感じてしまいました。実は個人の人生とはもっと複雑で固有の物なのだと思います。「こういう時代だった」というところまでは分かるのですが、そこにあるはずの一人ひとりの感情であり、苦悩であり、喜びといった部分がもっと生き生きと描かれていて欲しいと思います。つまりはもっと登場人物の心に寄り添いたかったという欲求が残りました。ひょっとしたら百年ありきではなく、五十年、三十年にして、それぞれの描写をもっと深めた方が私の趣味には合っているのかもしれません。
『超現代』
過疎化した農村への移住。ベーシックインカムの実験。祭りの復活。負け組の屈折。非常に今日的な小道具がてんこ盛りにされていて、とても興味深く読み進めることができました。私はこういうの好きです。一癖も二癖もありながら、それでも毎日に向き合っている人物たちに単純に感情移入ができました。応援したい気持ちで読んでいました。やけに細部に説得力があると思ったら、ワークショップで時間をかけて作られた戯曲のようですね。その過程を含め、よく練られた物語であるように思います。上演に向けた確かなモチベーションを、戯曲から感じられるというのは素晴らしいことだと思います。少々残念に感じたのは、物語の為のご都合主義的に事件・事故が起こっていく点です。一度決まったベーシックインカムが次年度から打ち切られるとか、ちょっとさすがに行政のやることとしてはリアリティがないような・・・。更にみつこさんの死自体が、物語の展開の為の事件になっていて、その事件に対するリアクションにいま一歩現実味が欠けているように感じてしまいました。コミュニティ内の人間が一人事故死したということは、さすがにもっと深刻で重く受けとめられなければいけないように思います。ただ最後の神楽に繋がっていく流れは、多少の強引さも感じますが、なんだか強い意志を感じ、言葉にするのは難しい感動を覚えました。上演ではより感動的なラストだったかと思います。戯曲の出発地点はとても良かったので、よりその展開の細部まで練られていれば、もっともっとすごい戯曲になると思います。
『みえないくに』
グラゴニア共和国という架空の国にはその母語であるグラゴニア語(においを表す言葉が世界で一番多いという設定)が使用されています。ある時、グラゴニアが隣国に戦争を仕掛けてしまうので、グラゴニア語の辞書を出版しようとする編集者や翻訳者が、出版を進めていいのかどうかについて議論する展開です。ノーベル賞を有望視される作家がグラゴニアに住んでいることや、編集者や翻訳者の事情も見えてきてドラマの緊張感を支えています。人生が歴史や国家の状況にいかに翻弄されるものかを、言語の歴史を通して描くという試みも面白かったです。
鈴木さんは以前から、過去に実在した歴史上の一人物の評伝劇を書いていましたが、今回は全てフィクションでやろうとすることで、先の見えない未来をあえて扱おうとする新しいチャレンジだと受け止めました。しかし同時にどこか今までのフォーマットを踏襲しているような描き方になっているとも。ラストに言葉を書くことや未来への希望を述べる展開、幻想的な表現で語られる真理のようなもの、類型的なキャラクターなどについて、あらかじめ用意されたフォーマットがあるのではないかと感じてしまいました。もちろん、類型的であることの気持ちよさやリズムがあることもわかりますが、今回は物語が器に嵌め込まれて窮屈になっているように見えました。
ただし、カレーラというグラゴニアの作家が、誰も見向きもしないであろう小国の悲哀を重ねて、戦略的に「グラゴニアらしさ」を言葉にしようとし、そこに対して違和感を表明する翻訳家の箇所は圧巻でした。資本主義社会における小国やそのマイナーな母語の生き残りについて、ウクライナや日本を重ねて想像し、愛国心の起源について考えることができました。
新しいチャレンジはもちろんのこと、この部分をもって優秀賞の受賞に値するという評価に異存はありません。おめでとうございます。
『猛獣のくちづけ』
街で人がワニになるという現象が頻発する時に、それはきっと自分が孤独に怯える人間を救って欲しいと祈ったからに違いないと思う主人公が、自分のせいでワニに変わる同僚やワニに襲われる仲間を助けようとする話と読みました。前回『老獣のおたけび』を書かれた山本タカさんは獣が好きなのだと思うのですが、本当にそうか?と首を傾げてしまう場面も多かったです。
前回はゾウでしたが今回はワニです。この発想はまず面白いというか、どうしてもそうしたいという欲望を感じます。世界が一瞬にしてそうなったということに、人智を超えた現象が起こったと言ってしまえばいいし、そこから演劇を始めることこそがスリルのある劇作だとも思っています。しかし、前回の ゾウには「認知症」というメタファーが読み取りやすく、今回のワニには「孤独」というメタファーが仕込まれているように読めました。もちろん、原因が「孤独」であることは主人公の思い込みであるような流れもありますが、治療の過程の中に「キス」という行為を組み込むことで、コミュニケーションによる「孤独」の解消を重ねているように思えました。それも思い込みであって、本来、ワニという自然はそういった人間の思い込みの外にいるという設定でないと、どうしても作者の都合によるメタファーでしかなくなり、それはとてもスケールの小さい話になるのでは?と感じました。ワニになるという大きいアイディアをもっと野放しにして書くやり方もあるのではないでしょうか。
「こんな状況で、わざわざ人間やり続ける意味を見いだせるかどうかだろうが!」という台詞はとても好きでした。ワニでいたくなるような、もうすぐにでも人間をやめたくなるような状況を味あわせて欲しかったです。
『かいころく -工女編-』
大正から昭和までの養蚕農家と製糸工場、そこで働く女性たちの話です。
まずこの戯曲はとても読みやすかったです。大半が「いと」という人物のモノローグであり、彼女の目に映る光景や人間たちが台詞とト書きで書かれていきます。それだけで状況や背景や人間関係や行動も全てわかります。感情についてはあまり書き込まれていないので、そこを推測する面白さもありました。
「出発の朝、数少ない着物からもっとも気に入ったものを選んで着て、母に髪を結ってもらった。口を開けば泣いてしまいそうで、お互いに一言もしゃべらない。」
情報が全て入っています。つまり、台詞というよりも小説の地の文か日記の一節のように、何が起きているのかは明確です。
しかし、上演を想定するならば、あえて台詞やト書きで全て描写しなくても表現できるのではとも思えます。ト書きや台詞通りに俳優が演じたら、説明的になるのではないかと。読み物としての完成度の高さゆえに、身体が邪魔になるかも?という感覚です。この部分はいまだに危惧しています。
ただ、戦争の最中にいとが初めて光沢のある絹でできた着物を見て、思わずその着物に顔を埋めて喜ぶシーンがあります。ここでは、いとの喜びとは裏腹に、いとの人生と絹の着物はまるで遠く離れた存在であったという残酷さも印象づけられます。さらにその後、いとの人生が孫による遠い視点で語られます。つまり、途中までいとの視点に近かった描写に俯瞰の視点が加わっていく形です。
審査会で審査員の一人が指摘したように、この『かいころく』が「回顧、懐古、蚕」の三つをかけているとするならば、この戯曲には、日記のようないとの回顧、時の流れを感じさせる懐古、そして蚕への視点があるのでしょう。しかも、実は蚕を観察するように人間の生態を観察するという、俯瞰の視点がかなり強いと感じてきました。冒頭がまるで蚕が動いているかのような主人公の手を伸ばす仕草のト書きから始まっていることもあり、だからこそラストのいとが天を見て手を伸ばすのだと。もしかしたら演技や演出の仕方をかなり自由に設定できるのかもしれないと、この戯曲の可能性を考え直しました。その上でこの戯曲が最優秀賞の受賞に値すると評価しました。おめでとうございます。
『長い正月』
ある家の正月の時間だけをいくつか切り取り、全体を百年間のダイジェストとしてシームレスに展開する作品です。上手から登場し、舞台上に滞在し、死ぬ時は下手に去っていく(死なない場合は上手に去るかそのまま居続ける)というルールに合わせて家族の入れ替わりが起こるのも、死の呆気なさ、偶然性を表しているようで面白かったです。死にそうだけどフェイントで戻ってくる者もいるという表現も、切実なユーモアとして効いていると感じました。
この形式がゆえの単調さや類型的とも感じられる人物造型、大正から令和までの歴史を扱いかねているのではないかという問題も審査会では出ましたが、あえて時が「流れる」ことをテーマにしていると感じたので、強くは気になりませんでした。ただし、戦災孤児や軍国主義に染まった人物のエピソードも「流れ」てしまったとは思います。登場人物の「個」のディテールを詰め過ぎずに「類」として「流れる」ことの無情さで、ダイジェストとして流されてしまう人生のリレーを観客に見せることを選択したのだと想像しました。
もちろん「個」も大事です。全てに渡る必要はなく、ただ一点でもその人物に肉薄しているような視点があればスケール感のレイヤーが増えるので。ラスト手前の、誰もいなくなった舞台で一人ポツンと立ち尽くす人物のシーンがそれに当たるのではないでしょうか。孤独の中で流れ去った時間にじっと思いを馳せるような印象深いシーンでした。また、生まれてすぐや、最後に誰と話すこともなく上手から下手へと去っていった人物たちもいて、人間の生死について戸惑うような場面も秀逸でした。
そしてラストのシーンはこれまでの展開を補足するようなダイジェストになるのですが、ここは蛇足だと思いました。そもそも舞台全体がダイジェストなのだから必要ないのではないでしょうか。
けれど、そこまでの流れは空間設計にしても、物語の構造としても高い完成度であると思いました。優秀賞としての受賞に値すると評価します。おめでとうございます。
『超現代』
人口減少を食い止めようとベーシックインカムを始めた町の集会所で祭りの準備を進める新旧混ざった住民たち。急遽ベーシックインカムの中止が決まり、住民たちが不安を感じている中、大雨に襲われます。
この設定はほんのちょっと先の未来で起こりそうなので、とても興味深かったです。ただ、読み進めていてもあまりこの町の事情がよくわからないとも思いました。登場人物が自らの生活の状況やメンタルの状態を話すことはあるのですが、そのリアリティは面白いとはいえ、それはあくまで個人の事情です。本人がそう言うだけで嘘か本当かもわからなく、共有しようがないのではないでしょうか。
しかし、この町の事情については共有できる事実や事情があるはずで、そちらが会話に上ってこないのは不思議な印象でした。例えば、なぜ住民たちはベーシックインカムの中止について話し合ったり、反対しないのか。そもそも限界集落ならば、その事情に詳しい人がこの場にいないことがまず引っかかりました。いないとしても内部事情を何かしら聞き出そうとする人がいてもいいのではないかと思いました。
河川の氾濫が起きた後、登場人物の1人が置いてけぼりにされてしまい、亡くなってしまうのですが、その後またメンバーが集会所に戻ってきて遺品を手に取ったり、祭りの開催について会話します。このコミュニティが試される重要な場面だと思いますが、神楽を踊ってしまうことで情緒的なラストにつながっているように感じました。それらの行動を亡くなった人物の追悼として読もうとしても、事故の後にその当事者たちが行うことではその意味が変わってきてしまうのでは?もちろん、人間は情緒に流れる場合もあるかもしれませんが、彼らに間接的な加害者ではないのか?と突きつける者がいないと、都合が良いのではないでしょうか?
車で来た人と集会所の中の人がエンジン音に会話をかき消されたり、扉の開け閉め、集金封筒を渡された者たちのやり取り、電動ポットがコンセント刺さってない時の会話など、集会所ならではのリアリティと同時にその状況のリラックス感や緊張感、喪失感と繋がっている部分は面白かったです。
※今回の候補作である『長い正月』は上演を拝見しています。また『かいころく』の作者である私道かぴさんは知り合いであり、仕事も共にしています。もちろん審査は公平に行なったつもりです。
令和7年3月10日(月)に開催した最終審査会の結果、次のとおり受賞作品が決定しました。
大賞 | 『かいころく -工女編-』 | 私道 かぴ | (東京都) |
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優秀賞 | 『長い正月』 | 石崎 竜史 | (埼玉県) |
『みえないくに』 | 鈴木 アツト | (東京都) |
※最終審査員の選評は3月下旬頃ホームページで公表します。
※大賞受賞作品は戯曲賞受賞記念公演として、令和8年度に札幌市内で上演を予定しております。
作者:私道 かぴ
劇作家、アーティスト。京都を拠点に活動する団体「安住の地」所属。身体性を強く意識した演出と、各地に実際に滞在し聞いた話を基に作品をつくる。2023年度ACYアーティスト・フェロー。身体感覚をモチーフにした戯曲『いきてるみ』で第29回OMS戯曲賞佳作を受賞。脚本・演出を担当した短編演劇『アーツ』が第16回せんがわ演劇コンクールにてオーディエンス賞を受賞。近年は、演劇の分野で培った脚本・演出方法を活かしながら、美術の分野でも作品を発表。映像作品『父親になったのはいつ?/ When did you become a father?』が国際芸術祭あいちプレイベント「アーツチャレンジ2022」にて入選など。
作者:石崎 竜史
1988年生まれ。茨城県出身。脚本家・演出家・俳優。劇団「20歳の国」主宰。マッシュ所属。早稲田大学在学中に「劇団木霊」で演劇活動を開始。2012年、20歳の国を結成。以降、全作品の作・演出を務める。市井の人々の「ありふれた営みの中の、特別な時間」に光を当て、観客が自身の人生における「あやまち」や「ままならなさ」を振り返り、見つめ直すことができる演劇創作を志向している。2013年、佐藤佐吉演劇賞・優秀脚本賞、優秀演出賞を受賞。2024年、『長い正月』の戯曲と劇評が、演劇批評誌「紙背」に掲載された。
作者:鈴木 アツト
1980年生まれ、東京都出身。劇作家、演出家。2003年に劇団印象-indian elephant-を旗揚げ。2015年、国際交流基金アジアセンター・アジアフェロー。同年、文化庁新進芸術家海外研修制度の研修員としてロンドンへ留学。2019年、ポーランド・ドルマーナ劇場で児童向け演劇作品『CiufCiuf!』(作・演出)を滞在創作。2024年、『ジョージ・オーウェル~沈黙の声~』が、第11回現代日本戯曲朗読公演に選出、ソウル・明洞芸術劇場で上演(主催:韓日演劇交流協議会・韓国国立劇団)。主な作品として、『エーリヒ・ケストナー~消された名前~』『藤田嗣治~白い暗闇~』『カレル・チャペック~水の足音~』など。著書として『犬と独裁者』がある。新国立劇場2024/2025シーズン こつこつプロジェクト第三期に、2025/2026シーズン 『11の物語-短編・中編(仮)』に、演出家として参加。
令和7年1月15日に開催した1次審査会の結果、以下の5作品(応募総数107作品)が審査を通過し最終候補作品として選出されました。
『かいころく -工女編-』 | PDF形式 | 私道かぴ | (東京都) |
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『超現代』 | PDF形式 | 岡本拓也 | (愛知県) |
『長い正月』 | PDF形式 | 石崎竜史 | (埼玉県) |
『みえないくに』 | PDF形式 | 鈴木アツト | (東京都) |
『猛獣のくちづけ』 | PDF形式 | 山本タカ | (東京都) |
(作品名50音順、敬称略)
最終審査会は令和7年3月10日開催予定 結果はホームページで発表します。
千葉県出身。00年「毛皮族」を創立し、劇作家・演出家・俳優の活動を開始する。09年『セクシードライバー(初演)』、10年『小さな恋のエロジー』は岸田國士戯曲賞最終候補作。08~13年ジュニアフェロー、2017年のサバティカル、2020~22年のセゾンフェローⅡ、と合計10年に渡りセゾン文化財団からの助成実績をもつ。2016年に映画『過激派オペラ』を初監督して以来、映画産業での政治性、芸術性、経済のありようへの興味から、映画製作者としての活動をスタートする。誰からでもアクセス可能な民間芸術を探求し、 劇場の形・上演の形を模索する。彼女の作品の多くは、セクシュアリティの多様性を擁護するために存在する。近年の代表作『Gardenでは目を閉じて』『セクシードライバー(野外劇)』『ロイヤル(野外劇)』はU-NEXTで視聴可能。
高知県出身。2008年から役者として活動を始める。2018年、自身の出身地、高知県土佐清水市の方言「幡多弁」を使用したお芝居を打つべく、演劇ユニット「ばぶれるりぐる」を旗揚げ。以降、定期的に幡多弁を使用したコントやお芝居を発表し続けている。
2020年『二十一時、宝来館』で関西演劇祭ベスト脚本賞受賞。同年、『いびしない愛』で第26回劇作家協会新人戯曲賞受賞。2022年『他人』で日本の劇戯曲賞最優秀賞受賞。近作に『島根マルチバース伝』(NHK地域発ドラマ)など。
普遍的な悩みや葛藤を扱いつつも印象はライト。人物描写に定評があり、思わず笑ってしまう劇作を得意とする。
脚本・演出家。1975年生まれ、神奈川県出身。
02年、ピチチ5(クインテット)旗揚げ、主宰と脚本・演出を務める。後に、ニッポンの河川、ベッド&メイキングス、スリーピルバーグスなど複数のユニットを立ち上げ、幅広い活動を展開。『あたらしいエクスプロージョン』で第62回岸田國士戯曲賞を受賞。
作・演出の近作に『ジャズ大名』(千葉雄大主演)、『音楽劇 浅草キッド』(林遣都主演)、『閃光ばなし』(安田章大主演)、脚本に『暮らしなずむばかりで』(演出・木野花)など。また、『墓場、女子高生』は、高校演劇への脚本提供も数多く、全国各地で上演が繰り返されている。テレビドラマ脚本に『逃亡医F』、『あなたの番です』など。2015年公開『愛を語れば変態ですか』で映画初監督。
劇作家、俳優。78年東京都生まれ。02年、劇団チョコレートケーキに入団。09年「a day」より劇作も手がける。10年、「サウイフモノニ…」から日澤雄介が演出を担当し、現在の製作スタイルを確立。あさま山荘事件の内側に独自の物語で切り込んだ「起て、飢えたる者よ」以降、大逆事件やナチスなど社会的な事象をモチーフにした作品を作り続けている。14年、「治天ノ君」が第21回読売演劇大賞選考委員特別賞受賞。15年には劇団としての実績が評価され第49回紀伊國屋演劇賞団体賞を受賞。19年と22年、第26回・第29回読売演劇大賞優秀作品賞を受賞(「遺産」「帰還不能点」)。23年「「生き残った子孫たちへ 戦争六篇」で読売演劇大賞と最優秀作品賞を受賞。
劇作家・演出家、劇団サンプル主宰。1972年東京都出身。大学時代に寺山修司や唐十郎のアングラ演劇に影響を受けるが、平田オリザの現代口語演劇との出会いをきっかけに、1996年俳優として劇団青年団に入団。作・演出を手がけるようになり、2007年劇団[サンプル]結成、青年団から独立。近作では、北九州芸術劇場クリエイション・シリーズ『イエ系』(作・演出)、KAATキッズプログラム『さいごの1つ前』(作・演出)など。2011年『自慢の息子』で第55回岸田國士戯曲賞受賞。伊、仏、米、台湾に続き韓国では2020年から3戯曲が翻訳上演されるなど国内外から評価を受けている。またNHKが立上げた脚本開発特化チーム<WDR>のメンバーに選ばれ、連続ドラマ脚本の開発に取り組んでいる。11月に、ハレノワ創造プログラム松井周×菅原直樹『終点まさゆめ』の公演が控える。
募集期間 | 令和5年7月1日~9月1日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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応募数 | 141作品(新規66作品) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年齢別 |
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都道府県別 |
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江本 純子 | (毛皮族・財団、江本純子) |
瀬戸山 美咲 | (ミナモザ) |
福原充則 | (ピチチ5) |
古川 健 | (劇団チョコレートケーキ) |
松井 周 | (サンプル) |
大賞 | 『迷惑な客』 | 七坂 稲 | (兵庫県) |
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優秀賞 | 『犬と独裁者』 | 鈴木 アツト | (東京都) |
最終選考作品 | 『流れてく』 | 久保田 響介 | (東京都) |
『ふねを漕ぐ魚たち』 | 白江 夏生み | (東京都) | |
『老獣のおたけび』 | 山本 タカ | (東京都) |
大賞受賞の七坂稲さん、優秀賞受賞の鈴木アツトさん、おめでとうございます。心より祝福します。と同時に心より問いかけます。
久保田響介さん、山本タカさん、白江夏生みさんの戯曲もそれぞれに魅力と疑問がありました。
『迷惑な客』
「生き辛いとか、その次元じゃないんですけどこっちは」
この戯曲への信頼をこのセリフから感じた。しかし、困った。登場人物とその状況に対する、作者は何目線なのか?としばらく悩んだ。
主人公である二人の男、彼らは「生き辛い次元」を超えて、その国や社会の住人にはなりきれず常に「客」でしかいられない宿命を作者から背負わされている。とは言え、彼らは社会から完全に疎外された場所にいるわけではなく、社会と関わった状況で生きている。行き場所がないわけではなく、ファミレスや牛丼屋に入れる。自分たちの行動や居場所に対する自嘲的な言動からは、常識的な社会性を持ち合わせていることも伺える。
交わされる会話と提示される人物たちの関係性に「幸福感」がある。切実な話には同情し、面白い話をしていたらその場にいるような感覚で笑ってしまうだろう。しかし、観客は彼らが交わす会話のおもしろさに、ただただ笑って、ほっこりしてしまう、そういう劇でよいのだろうか?
生き辛いどころじゃない彼らは、その暮らしにある「幸せ」を自覚している。彼らからしたら状況を納得しようと試みているだけかもしれないが、誇っているようにも見えて羨ましいくらいだ。この戯曲は、彼らに時折訪れるきらめきのような幸福感が素敵すぎて「とても大変だろうけど、生きていけそうじゃない」と傍観する他者は安心してしまいそうになるのだ。彼らを「生き辛いどころじゃない」まま放置している社会の責任すらも、問わないようにさせられそうになる戯曲だ。それはいいのか。
私はこの戯曲を、未完成な状態だとも思う。
劇場で観客に話すことを前提に作られたような説明的な会話がいくつかある。まるでプロットから抜粋されただけで「会話」には落とし込まれてないような。説明意図や作為を隠せる会話の技術を作者はもっていると思うので、大賞記念上演の前には推敲もしてほしい。教養がないとされる登場人物が「オカマ」「オナベ」と発する描写があるが、このような差別言葉を表現上使用することに対する作者の意識のありかが不明瞭だったが、大丈夫だろうか。
ファミレス・牛丼屋での、彼らの会話以外の描写はこの戯曲ではほぼ描かれていない。ファミレスも牛丼屋も同じ空間に必ずいるはずの他者の存在という、独特のノイズがある。このノイズが彼らに及ぼす影響も取り入れなくてよいのだろうか。彼らの会話以外の音や気配は、戯曲からはほとんど聞こえてこない。遮断された彼らだけのコスモという解釈もあるかもしれないが、彼らは周囲を遮断していないし、社会とつながっている状況で彼らが「客」として居座っている状態を描くことに意味があると私は考える。
彼らがいる場所の「空気」の詳細についての書き込みが少ないのは、読者や観客が抱く「ドリンクバー」「牛丼屋」の一般的イメージを頼っているからだろうか。この戯曲への懸念に関連することだが、物語のための材料のほとんどに「一般的な共通認識」が存在し、その前提を頼りに、物語が存在していることだ。「震災」「流産」もしかり。こういったことはテクニックのひとつかもしれないが、歓迎しづらい気持ちがどうしてもある。ファミレスのドリンクバーに滞留すること、牛丼屋で紅生姜を大盛りにすることが迷惑な行為だと世間一般の共通認識があったとしても、戯曲はそのように決めつけてはいけないと思うからだ。(世間の共通認識の前提がある上で描かれているこの戯曲で、「世間の認識」を認めてしまうことになる、それがとても引っかかるのだ。)
さらに、彼らの素敵さは彼らの境遇への同情心があるからこそ生まれているものなのか?と自問しなければならない。そういう自問のための劇ならば恐ろしくよくできた構造だ。
登場人物の設定から「震災」「流産」をはじめとする、抗えなかった運命の数々(=作者が背負わせた宿命)を失わせた場合、この物語はどうなるのだろうか。
わたしは、この物語の根幹は、男二人の超素敵な友情が支えている、と思う。それらは、「震災」「流産」「ハンディキャップ」という設定を失っても、ファミレスドリンクバーではなくても、成立するように思う。
作者の視線は、弱者を放置する社会でも、弱者たちでもなく、ただただ人間を見つめているからだ。そんな作者による、彼らが「心の貧困者」ではない描写に、揺るぎない魅力がある。
もしこの戯曲が、「震災」や「流産」を用いずに、彼らの「心は貧困ではない」状態や状況を描いていたら、大賞を超えて「超大賞」だと歓迎していただろう。
『犬と独裁者』
鈴木アツト氏の作品は3年連続で北海道戯曲賞最終候補に残っており、審査員をこの4年務めている身としては、鈴木氏の評伝劇を読み、審査会で語り、選評を書くことは恒例のような事態にも感じる。「恒例」と言ってしまうのは、鈴木氏の評伝劇に対して毎年同じ懸念を指摘するに至るからだ。変わることのない、頑固な劇構造と、表現上の癖(信念や思想というより)。恒例化も、戯曲表現のパターン化も「クリエイティブさを欠く」と私は考えるが、この「変わらなさ」には降参・・いいえ、敬意を表したい。
去年の選評と重なってしまうけれど。「ことば」をもち、「ことば」を語れる立場にある人間は、特権的であると思う。よって、鈴木氏が主人公に設定する「作家」の苦しみは「特権者の姿」であり、そこに共感することに私は抵抗がある。権力に抵抗する代表者として芸術家や作家を描くのであれば、少しでも「民」からの視点やことばを取り入れて欲しいが、登場者はみな高等階級にいて、なおかつ彼らは自虐や内省なく存在している。そういう「自信」と共に独裁と戦おうする一途さに説得力を感じない。でも、その迷いや揺らぎのない一途さを、鈴木氏の戯曲の特徴として肯定したい。男女のやりとりが相変わらずメロドラマ的で苦手だが、男女描写にかかわらず戯曲自体が「ロマンチシスト」なんだな。このロマンチシズムをもっと活かせる題材がありそうなのに、鈴木氏は徹底して「国家と芸術」の危うい状況を描くことに取り組んだ。重ねて敬意を表したい。悩みに悩んで優秀賞の一票を投じた。
ところでロマンやエモーションのために、革命は存在するのだろうか?『三島由紀夫vs東大全共闘 50年目の真実』のインタビューで芥正彦氏が「革命とは最高級の大いなる詩」と語る姿を思い出した。この戯曲で描かれているように、独裁者スターリンの始まりも「詩」。独裁者になる前の詩人時代のスターリンの表裏に位置する主人公・ミハイルのエモーショナルが高まるごとに、わたしは暴走するロマンの行く末を案じた。
「目」をつぶされたミハイルは「書く目は消えやしない」と書き続けようとし、そこで物語は終わる(「書くぞ!」という主人公の未来への意思表示で幕を閉じるいつもの終劇パターンにも敬意をもつけど)・・むしろその先を書いてよ!!
『流れてく』
この戯曲の舞台を「田舎町」「ほとんどの人がイオンモールに依存しているような町」と作者は設定している。田舎町といえばイオンと表現する大雑把さ、イオンモールへの先入観的な侮蔑も作品の視界の狭さを予感させた。
アダルトチルドレンと思しき「生き辛さ」を抱える主人公高木。彼がカウンセラー佐伯に自己開示していく断片は、凡庸な簡易描写が続く。切り口の悪さも相まって冗長。バイト先、同窓会、学校での給食・体育でのトラウマの内容が、ありふれている必然があったとしても、高木にしか見えない詳細と高木にしか感じ得ない理不尽さが存在しているはずだ。イオンモールに依存するしかない町では、そこでのできごとさえもテンプレートで大量生産されたようなもの、という皮肉だろうか。結果的に記号的な表現を選んだとしても、細部を見つめる作業は必要だ。(イオンモールにいる人々をじっと見つめてもらいたい・・)
「有能さ」を求められる苦しみ、父なるものへの拒絶、バットマンという超マッチョなヒーローへの憧れ、同級生たちから「かわいい」とされる女性と付き合えることに自尊心を隠さない(だからこそ不安を感じている)、など、主人公高木は「有害な男らしさ」にも囚われている。それは彼がバットマンを頼りに自己受容を試みる過程でさえも。正義を貫き弱い者を助けるヒーローらしさを追求するし、「生産的であれ」とされる場面で認められて喜ぶ。もしかして、「有害な男らしさ」が主成分の価値観に浸かりきっているのは、登場人物高木ではなく、この作品自体なのではないだろうか。ひとりの男の自己受容の物語のために、“看護師”の女性が恋人となり、妊娠させられ、子供と共に殺され、死んだあとまで妄想に登場し、彼を全肯定してあげる。そこまでしないと始まらない自己受容ってなに。全てにおいて他力で自己受容されていくことにもびっくりする。
ラスト、妄想の“想像出産”を経て生まれたのは世間(他者の価値観)に歓迎される「新しい自分」。しかしこれでは結局のところ他者合わせに苦しむのではないだろうか。この物語が描いたのは「有害な自己受容」とでも言おうか。(自己受容そのものに、苦しみをもたらす有害さがあるのではないか、と考える)私はこの戯曲に出会わなかったら、ここまで苦しむ者たちの存在を想像できなかっただろう。私自身も地元のイオンモールを改めて見つめてみたいと思う。
『老獣のおたけび』
父権が衰えていく過程にある「肉体が不自由になる」「認知症が現れる」等、子として太刀打ちしづらい、親の「老い」症状の描写を、象の姿に重ねていく面白さはどこまで持続するかと期待した。しかしこのギミックは、父権と主人公、その周囲の関係を飛躍させることなく物語は収束していく。主人公・明利が父親の望みを満足させるための嘘を(ついに)つくシーン、「象」と息子の対峙は実に切なく、観客が黙考せずにはいられない演劇らしい時間を想像したが、騒々しいパトカーのサイレンが鳴る C級娯楽映画のようなシーンにつながってしまう。とてももったいない。さらには、象の父親が撃たれたのは「麻酔銃」だったとラストシーンでわざわざ説明する不要さも頂けない。
父親に認められない職業や生き方はいくらでもあるはずだが、「脚本家」以外の設定は精査されたのだろうか。作家がフィクションの素材として職業「脚本家」を登場させる場合の危険を一度は考えただろうか。今作の場合は、父親が象になるという大胆なフィクションの中に、脚本家設定ゆえに表れるエピソードやセリフは、やけに現実的でちまちましたものに感じた。この混在はバランスが悪い上に、私小説的なイメージまで立ち上がってしまうが、それは余計ではないだろうか(この戯曲にとって私小説らしさを出す意味はあまり感じられない)。
また、千春という存在はこの物語にこの形で必要なのだろうか。「父権」をテーマにした話だからと、主人公が「父親」になる時間を重ねようとしたのか、結婚へのきっかけのために恋人の「妊娠」を行動動機にさせたかったのだろうか。この主人公の物語にとって唯一登場する「女性」の配置や役割として、ずいぶんつまらない。主人公にとって女性の役割(存在意味)がとても「都合がよい」形でしか投入されないのは、あえて伝えなくてはいけない悲しさも含めて、とても残念である。
物語の飛躍が期待できるポテンシャルを秘めた戯曲だと思う、以上に挙げたポイントだけでも精査していれば、おもしろさは抜群に上昇しそうなのだが。
『ふねを漕ぐ魚たち』
なぜこの3つのエピソードなのだろう?3つのエピソードのそれぞれは短編として一つずつ丁寧に作った方が演劇としても物語としても簡潔に成立しそうだ。
わざわざ3つをバラしてまで、「夢」設定をテーマとしてつなげていこうとする意図はどこにあるかと探ったが、私にはキャッチできなかった。イメージでつなげることはできても、3つが同時に存在している意図が明確には現れないので、ひとつひとつのエピソードもただ分断してしまい、見心地が悪い。それは夢の心地悪さなのだろうか?
会話の編集は重ねた方がよいと思う。律儀な説明的表現やセリフが多い。
3つのそれぞれは、何を描きたいドラマなのか?物語を描くための物語を作っているような3篇でもあった。イメージは豊富に持ち込まれているので、より絵画的な演劇に進化していくのだろうか、と期待したい。
『犬と独裁者』
鈴木アツトさんの戯曲を読むのは北海道戯曲賞で3回目、他の戯曲賞も含めると4回目です。その多くが戦時下における芸術家の葛藤を描くもので、近年のものは、主人公が自ら幻視した存在に追い詰められていくのが特徴的でした。自分のスタイルを確立しているといえる一方で、主人公が変わっても読み終わったあとの感触は変わらない印象もありました。
今回の作品は、幻の存在の書き方の部分で一歩進んだと思います。今回、主人公であるブルガーコフが対峙するのは、自分がこれから描く戯曲の題材である若かりしスターリンでした。言葉で文学を追求するブルガーコフと、言葉で革命を目指すスターリンは表と裏のような関係で、ふたりのやりとりはスリリングでした。「目」という切り口もよかったです。
ただ、この素晴らしい設定を生かすためには、主人公の欲望や怒りももっと強くして、自分の中に出現したスターリンともっと激しく対立してもよかったと思います。特に、それぞれの考える民衆について議論はもっと発展させることができそうでした。主人公が圧倒的に負けるまで描ききる。そうすることで、迫り来る戦争に対抗して、自分は書くぞと決意するラストがもっと生きてきたと思います。
今回は主人公と幻想の存在のふたりが際立っているためか、周囲の人物を生かしきれていない印象がありました。特にスパイ的な役割の妻・エレーナはもっと面白く描けたのではと思います。思い切って主人公と独裁者と妻の三人芝居に構成してもよいかもしれません。また、会話が感情をすべて説明していて、観客の予想を裏切らないのももったいないと思います。言葉と感情にずれがあったほうが、観ている人が能動的に楽しめる作品になると思います。
『ふねを漕ぐ魚たち』
「魚」というモチーフが共通する3つのエピソードがどう絡み合ってどう着地するか楽しみに読みましたが、イメージの重なりで終わってしまった印象です。それぞれのエピソードについても、登場人物の葛藤が足りませんでした。だから、夢から覚めて向き合いたくないものと向き合うに至るまでの流れが見えない。さらに言えば、向き合うまでではなく、向き合ったところからドラマは始まるのではと思います。そこを描かないとしても、底を打つまで、登場人物たちの醜さ、弱さをもっと見たいと思いました。そのどん底で、3つのエピソードがつながったら、より力強い作品になると思います。ビジュアルのイメージは明快でした。ただ、赤いワンピースの女などに既視感があり、それが物語を表層的にしているとも感じました。
『迷惑な客』
外食チェーンに長時間居座る客。彼らの会話から「生きる」ということを見つめた作品です。とことん会話にこだわった劇で、馬鹿馬鹿しいやりとりの中から彼らの境遇が自然とわかるようになっています。一見どうでもよさそうな「日常」の言葉の中に、人間社会の本質を突くような「非日常」の言葉が存在しているのも素晴らしかったです。いいセリフはともすれば説教臭くなる恐れがありますが、七坂さんははぐらかし方がうまかった。それでいて、印象的な言葉は観客の心に残る。意識が行き届いた作劇だと感じました。
また、ほとんどの部分が席に座ってのやりとりですが、生理的な反応から言葉が生まれており、身体感覚のあるセリフだと思いました。阪神大震災という現実の出来事を背景にしている点についても、絶妙なバランスで事実をフィクションとして成り立たせていました。改善の余地があるとすれば、途中の病院のシーンです。ここだけ外食チェーンから出ることで違和感を演出しているのかもしれませんが、やや説明的に見えました。次のシーンの会話の中でも十分伝えられると思います。『迷惑な客』という題名については、社会全体における彼らの立場を端的に表していて合点がいきました。今回の5作品の中で頭ひとつ抜けていたと思います。
『老獣のおたけび』
老いた父親が象に変わっていくという設定から、加齢や認知症、そのほかの病気の進行、社会的な孤立などが示唆され、興味深く読みました。おそらく象の役は生身の人間が演じると想像しますが、そうすることで周囲の人間こそが彼を「象」たらしめているように見える、巧みな仕掛けだと思いました。
しかし、駆け出しの脚本家である主人公が、父に認めてもらうことにこだわり続ける様子に乗り切ることができませんでした。父権的な価値観の父を嫌がっている主人公こそが、父権的な価値観に囚われて生きているのではないでしょうか。その矛盾が、最後まで矛盾として提示されませんでした。妊娠した恋人の描き方もその価値観の中に留まり、主人公にとって都合のよい存在として終っていた印象です。
『流れてく』
最初は高木という男の周囲の登場人物の解像度が低いことに戸惑いました。しかし、実はそれが高木から見た彼らに過ぎず、後々、背景が描かれて印象が変わっていくのは面白いと思いました。ただ、高木のカウンセリングをする佐伯という女の描き方は最後まで荒いと感じました。人権意識などに欠く発言が多く、カウンセラーとして見ることができませんでした。また、冒頭は佐伯の語りで始まるのに、最後には消えてしまったのが残念です。
この作品を含め、今回5作中3作で恋人が妊娠する男が出てきました。特にこの作品の主人公は父親になりきれず、結局、自己の受容の問題にぶち当たります。せっかく解像度が上がった周囲の人たちもラストでは再び記号化し、主人公を応援する役割を担わされます。苦手だった父親と自分を重ね合わせ、妄想の中で生む子供の誕生に自分の産まれ直しを重ねる、劇全体の構造はよくできていると思います。しかし、このような男性の自己承認の物語をあらゆるジャンルでこの2、30年ずっと見てきていると思います。物語上殺された女性のほうに自分を重ねる人がいることを、忘れないでと言いたいです。
今年から審査員として参加することになりました。
参加してみてわかったことは、審査員の好みはバラバラということです。評価するポイントもバラバラ。別の人が審査すれば、また違った結果になったでしょう。そんなものです。結果に満足の方も、不満のある方も、それぞれの道を進んでもらえればと思います。
また各作品を読み、〝面白い・面白くない〟より、〝強い・弱い〟ということに違いがあることに気付きました。個人的な好みとして面白くないと感じても、〝強い〟作品は先を読み進めたいという気持ちがわきました。なにが強い・弱いなのかと聞かれると困るのですが、創作への執着のようなことでしょうか。
そういった意味でいうと、『流れてく』は〝強い〟作品だと思いました。書き手の情念のようなものがうずまいており、印刷されたフォントなのに、書き殴ったような勢いと筆圧が伝わるような力作でした。
反面、そこで使われているのは、メタ構造を使った台詞の多用です。これは読み手(上演されれば観客)を、その度に冷静にさせる危険性を持ったテクニックだと思いますが、その危険性を深く考えずに無造作に使っているように思えました。要はメタの扱いに失敗している。もしくは使いすぎている。物語が軌道に乗る前に、メタによって、その物語を脱線させてしまうので、登場人物の感情と読み手の感情が積み上がっていかない。ドミノならいっぱい並べてから倒す方が、ゴジラなら平屋より東京タワーを壊した方が迫力があるじゃないですか。力作と書きましたが、故に迫力不足とも感じてしまいました。
迫力不足は『ふねを漕ぐ魚たち』についても感じました。この作品は、〝迫力〟という言葉からは遠い、浮遊感のある描写をつむぐことを大事にしているとは思います。また夢のようなイメージの連続が、ある種の世界観を立ち上げることに成功していると思います。蝋燭の火がゆらぐのをずっと見ていられるように、心地よく読みました。
一方で、作者の意図は、もっとその先へ、その奥にあったと思います。「心地よく読みました」なんて感想を求めていたわけじゃないと思います。しかし肝心の浮遊感について既視感のある描写が続くので、「不思議なシーンを並べることだけが作者の意図なのかしらん」と思ってしまい、「いやいやそんなはずは…」と〝もっとその先へ〟を読み取る作業をして…の繰り返しで、作品世界に没頭できたとは言い難いです。〝浮遊感〟〝夢〟〝イメージ〟への作者の執着をもっと感じたかったです。蝋燭の火がゆらぐような芝居だとして、その蝋燭にも芯はある。その芯をもっと。
既視感ということでいうと、『老獣のおたけび』の〝ある日突然、誰々が○○になった〟という設定(この作品では〝父〟が〝象〟になった)は、コントなどではよくある設定とはいえ、面白く形になっていたと思います。ただ、その設定に掛け合わされていく、〝強い(強かった)父へのコンプレックス〟や〝仕事と結婚等々の将来への不安〟などもよくある設定で刺激がなく、象の面白さをあっというまに飲み込んでしまった感想を持ちました。もちろん新しい設定を思いつくことがすごいとは思いませんし、よくある設定というのは、それだけ繰り返し描く意味のある普遍的なテーマであると思います。なので、堂々とホームドラマを、それも〝父が象になった〟というスパイス付きで展開して、押し切ることが出来たと思いますが、肝心の〝象〟の扱いが気になりました。
一体、象はなにを象徴しているのか。序盤で「認知症かな」と思い、中盤で「やはりそうか」という描写がありましたが、終盤の展開では「あれ?違ったの?」と思ってしまい、中盤まで戻って読み直しました。でもやっぱりこれは認知症の話でしょう。だとしたら、物語の終わりはあれでよかったのでしょうか。それは作者が決めることですが、私には、作者が、自分が作った世界を最後の最後で雑に手放したように思えてしまいました。
ラストが気になったのは『犬と独裁者』も同じです。ラストの主人公の決意の台詞は、別にオープニングでも言えたのではないかと思ってしまいました。主人公は冒頭から悩みつつも強い人で、葛藤を表現しているようなシーンでも、実はぶれることなく突き進み、芸術家としてあり続ける。…この〝芸術家として〟の部分が気になるところで、労働者として革命に奮闘するスターリンとの対比で、芸術家の悩みが暢気に見えてしまいました。主人公の感情の深淵をもっともっともっと描いて、そのぶれなさを獲得するに至った〝ぶれ〟を感じたかったです。
しかし、そんなことが気になりつつも私は優秀賞に推しました。とにかく力強くいい台詞に溢れていて、その熱量が最後まで落ちない。描こうとしていることへの執着が感じられ、読み終わって「参りました」と思いました。 まぁ登場人物が揃って、力強くいい台詞を口にするので、途中から全員同じ人物に見えてくるとか、いい台詞による気の利いた会話がすぎて、もはや友近さんなどが演じたら爆笑の取れそうな翻訳劇あるあるコントみたいになってないか、とか思ったりもしたのですが、そんな点も「いいぞ、もっとやれ。やりすぎろ!」と思いながら好意的に読めました。
思いつきで最後に書き足しますが、群像劇を書いてみたら作者の資質ととても合致しそうだなと思いました。
最後に大賞となりました『迷惑な客』ですが、相対的なことを先にいえば、今回の作品の中ではこの戯曲だけが、〝迂回する会話〟だったと思います。たどり着きたい結論に向かって一直線の会話が展開する戯曲が多かった中、この作品は目的地を巧みに隠しながら進んでいました。
登場人物達はとにかく駄話を続ける。その中で絶妙なタイミングで絶妙にチラ見せされる本音。本音ですが、常に照れをまとっており、無駄な感傷を避けている。そしてまた駄話が続く。それが繰り返されるうちに、そこに集い、座って喋り続けることが、登場人物達がなんとか前向きに生きることの、かすかな希望であることが浮き彫りになる。
会話の面白さは、どんな力量の役者が演じても一定の笑いを生むであろう面白さになっており、何気ない会話に生活への哲学が紛れこんでいる。面白い会話、真面目な会話、寂しい会話などと分けられておらず、いくつもの感情が混ざったまま読み手の胸に流れ込んでくる。
大賞作品は、上演が予定されていますので、あまりネタばれはさせたくないですが、終盤の二行の祈りについてのト書きの、その順番に、上演時に劇場を支配するであろう空気を想像して、その先を読み進める手をしばらく止めました。受賞、おめでとうございます。
三度目の審査員を務めさせていただきました。今年もそれぞれ特色のある多彩な候補作が揃っていたと思います。毎年、この多彩さには驚かされます。それぞれに魅力があり、相対的な評価をするのは難しいといつも思います。選評はあくまでもひとつの意見に過ぎません。そこはどうかご理解下さい。
『犬と独裁者』
個人的な趣味で恐縮ですが、世界史の中でもとりわけソ連史に深い興味を持っている私としてはとても面白い題材でした。スターリンの大粛清下で、劇作家が評伝劇を書くためにスターリンを理解しようとするというストーリーにとても惹きつけられました。独裁者スターリンというのはよくあるモチーフですが、若き日の革命家スターリンというモチーフはあまり見たことがなく、非常にうまい視点であるように思います。ソソという謎の登場人物の変化が魅力的であり、被差別のグルジア人の若者が、冷酷無比な独裁者に育っていく経緯が非常に面白かったです。
もう一人の主人公であるスターリンの部分がとても面白くできている分、本来の主人公ブルガーコフのドラマが少し弱いように感じました。劇作家として絶望しながら、それでも何事かを書こうとするその最終的な決意に至るまでが、やや類型的なようにも感じられました。ブルガーコフを取り巻く人物たちも、少し印象が薄くなっています。大粛清下のソ連というある意味極限状況の中で、それぞれが何を思い何を望み、そしてどう生きたのか。そのあたりをもっともっと知りたいように思いました。恐らくスターリン以外の登場人物たちの方に感情移入したいと、多くの読者は感じるのではないでしょうか?
私個人としてはもっとスターリンに特化した物語でも楽しめたとは思いますが、これは完全に個人的な趣味ですね。敢えて大粛清期のソ連というあまり日本では描かれない時代に挑んだ勇気は大いに賞賛されるべきだと個人的には思います。
『ふねを漕ぐ魚たち』
金魚、赤い服の女、水族館、ニジマスの形の塔。とても視覚的な想像力をかきたてられる戯曲でした。そこがとても新鮮に感じました。金魚も漁船も海も、私にとっては非日常的なモチーフですが、それでも懐かしさを覚えます。単館系の映画のようなおしゃれな印象を持ちました。三つのお話の絡み方も程よいと思いました。それぞれのシーンの繋ぎも面白い仕掛けだと思います。違う三つの話として読みながら、どことなく統一されたものを読んだような読後感です。自分にはこのような発想はないので、素直に面白いと思いました。
しかし、オムニバス的な構造のお話は、ボリューム不足になるきらいがあります。この三つにも、私はやや食い足りないものを感じてしまいました。三分の一にしてしまうと、どうしても踏み込みが足りなくなってしまいます。この三つのお話がそれぞれ内包しているテーマは、長編にしても十分に耐えうる強度があるように感じました。三つ並べてしまうよりも、一つ一つをもっとじっくり味わいたかったなぁというのが正直なところです。あるいは三つの話にもう少し分かりやすい共通点があるとその繋がりを面白く感じられたかもしれません。
色々な役を演じる〈他〉の俳優さんが様々な顔を見せてくれるんあだろうなぁと個人的に想像しました。どんな上演になるのか気になる戯曲です。
『迷惑な客』
一読して、とにかく巧みだと思いました。いつものファミレス。ドリンクバーで駄弁る若い男二人。まるで90年代のコントのような舞台設定から、このような深いところまでセリフだけで展開させていく筆力はすさまじく巧みです。なんとなく交わされるセリフも非常に選択が上手だと感じました。毛深さの話。ホヤの話。オノマトペの話。意味がないようで、含蓄のあるようで、良い意味で思わせぶりで読者を飽きさせません。登場人物たちの抱えているそれぞれの事情についても情報がうまいタイミングで過不足なく提示され、彼らがどこに行くのか最後まで興味津々でした。いや、読み終わった後も、彼らがどこに向かうのか気になり続けています。これだけの物語を飲食店の客席という舞台での会話のみで紡ぎあげた点には尊敬の念を抱きます。三人の登場人物が、まず生きているというのが素晴らしいと思います。確かに彼らの息遣いが込められている戯曲であったように思います。
以下は好みの問題です。人間は様々な問題を抱えながら、それでも何もなかったかのように生活し、食事をするわけです。だから彼らのやりとりは切実でありながらもどこかユーモアを感じさせるものでしたし、それがリアリティーなのだと思います。それでもなお、私は読者として、理不尽で残酷で無慈悲な世界に生きる彼らの内面をもう一歩踏み込んで知りたいと感じました。客観的に読むのではなく感情移入がしたかったのです。俯瞰で眺めるドライさも大事ですが、がっつりと登場人物に寄り添う部分があるとより深い満足感が得られたのかもと思いました。もちろん、これは私の好みの問題ですが。
『老獣のおたけび』
舞台上に象がいる。しかもおそらく生身の俳優さんが演じる。この非常に演劇的なアイデアが面白いと思いました。演劇の不自由さを逆手に取った、とても素晴らしい仕掛けです。ある日、父親が象になる。まるでカフカの「変身」のような文学的な香りすらします。しかもこの象化が老化・認知症による意思疎通の喪失のメタファーになっているところが更によくできているなぁと感じました。もともと人間同士ですら意思を通じるということが難しいのに、いわんや象をや。というところでしょうか。上手くいってない親子関係を、根本から問い直すきっかけが「象化」というアイデアは何度も言いますが私はとても面白いと思いました。
その反面、若干そのアイデア頼みになっているようにも読めてしまいました。次男と父親、次男と長男、次男と恋人。この物語の核になる人間関係が、やや類型的であり、既視感があります。近所の親子は存在感があり、良いアクセントになっていたと思います。この物語の核が親子関係であり、恋人との関係である限り、その部分に象化以上の説得力を持たせないと話がうまく回らないように思います。また、主人公が「親父の世話、俺がする」と決意するところが物語の肝だと思うのですが、そこに至るまでの心象の描写が不足しているのか、やや唐突に感じてしまいました。やはりこの部分は、じっくりと見せて欲しいところだと思うので、もう少し丁寧であっても良いかなぁ思います。
あれこれ書きましたが、俳優さんが象をどう演じるのか、上演を見てみたいと感じる戯曲でした。
『流れてく』
「妊娠した」と言う男が登場して物語が始まる。そんなに珍しい冒頭ではないのかもしれませんが、やはりインパクトはあります。「それでどうなるの?」という興味がむくむくと湧き上がり、読み進める力になっていたと思います。どういう物語なのかと思いながら読み進めるとうまく生きることのできない男性の再生のお話でした。この主人公高木の生きづらさがとても生々しく描かれており、あまり生きるのが上手ではない私自身の内面に響くものがあり、図らずも大いに共感しました。どうやってもうまくいかないことなんていくらでもあるよなぁと、自分の半生を振り返りつつ頷いている自分がおりました。そういう意味で、個人的に刺さるもののある戯曲であったことは確かです。
しかしながら、高木と志村の関係となってくると、あまりに高木のご都合で物語が進んでいるように読めてしまいました。高木を救い、やがて加害される為に登場してくる志村という女性。ここまでしないと主人公が再生できないというのはやはり首を傾げざるを得ません。たとえ夫婦でも恋人でも、親子でも、他者は自分以外の世界の一部だと思います。主人公にとっての「特別な存在」を用意しようとし過ぎるあまり、ストーリーにとって都合のいい悲劇のヒロインが誕生してしまったように思えます。高木が一人で世界に立ち向かい、再生を模索しても成立すると思いました。そこに不幸な女性が出てこなくてもいいということです。
人間の「生きづらさ」に対する並々ならぬ思い入れ(勝手な思い込みかもしれませんが)には共感できました。もう少し違うアプローチがあればより良くなるような予感があります。
『ふねを漕ぐ魚たち』
夢と魚を媒介にして三つの物語が進んでいきます。進んでいくにつれ、登場人物の過去や謎が解明されていきますが、そもそも読んでいて一番の謎に感じたのは「なぜ夢や魚がモチーフになっているのか」であり、そこについては謎でありました。また、登場人物の名前が「鯛良」や「河口」になっていたり、「金魚」や「赤い服の女」など魚まわりの言葉やそこから派生したイメージが多用されているので字面では楽しいのですが、各エピソードの着地の仕方は常識的であり、窮屈さを感じました。別の言い方をすると、「夢」というコンセプトを理想やしがらみや眠っている時に見るものに分類して扱うことで、どのエピソードもその裏に対峙する「現実」というゴールとの答え合わせで終始しているのが勿体無いと感じました。「現実」を種明かしすることで終わりなのではなく(それもあってもいいけれど)、「夢」に復讐されたり、「現実」に戻れない物語が含まれたってそれはそれでいいのでは?とも思いました。
『流れてく』
妊娠の兆候がある男が、カウンセリングを受けながら過去と向き合う話だと読みました。この構造から男の過去に遡っていくような時間の中で、時々今でも思い出しては苦しくなるような学生時代のエピソードが挿入など、とてもうまく描写できているように感じました。しかし、途中から息苦しく感じてきたのは、この主人公の自己否定から自己肯定へのプロセスが非常に家父長的価値観に沿っていることでした。例えばバイト先でバカにされている主人公が根性論を受け入れていく過程や、付き合っている女性を疑うところなどは、ある意味間違えているかのようです。そして最終的に地獄に落ちるとも読めました。それはつまり、主人公は父親の唱えていた呪いによって壊れてしまった被害者であるとも言えます。しかしなんだかねじれています。ある種のマッチョな成長譚を肯定しているようで、でもそれは父親の呪い(できちゃった婚で生まれてきてしまった自分は価値がない)にかかったままだという見せ方。また、全てのエピソードはカウンセリング中の回想であるし、イマジナリーフレンドのような存在も登場するので、物語上の事実は特定されません。なので、もしこの作品を終わらすには、カウンセラーの視点からどう読み取っているのかを見せてもいいのではないでしょうか?
この作品は一つの悲劇だと思いますが、この主人公の間違った自己肯定のために用意された登場人物たちが不憫で仕方がないという印象が残りました。主人公が好きな人と一緒にいて思わず貰いゲロをするとか、「…なんで…僕なんか気にかけてくれるの?」と主人公が言った後に無条件に友達が「だってお前いい奴じゃん。」と言ってのける場面など光る細部が物語の構造によって隠れてしまったと感じました。
『老獣のおたけび』
象になってしまった父をどうしたらいいのかと悩むと同時に、自分の仕事を認めてもらいたい息子の話。父が象になるという始まりは面白いのですが、その設定を活かしきれているようには感じられませんでした。途中、認知症を思わせるような父の記憶を無くしていく描写や息子との対立も、象にならなくても成立するし、むしろシンプルに問題が浮き彫りになったのではないかと感じました。象になるのなら、父自身が象であることをどう受容していくかのプロセスをもっと知りたかったです。鼻を動かすことや人と違う知覚や少し違った自己認識などが起こるのでは?と想像しました。また、もし認知症を発症することと象になることを重ねているのだとしたら、挑戦的でもあるけれど、乱暴であるとも思います。人間が人間を話の通じない象だとみなすこと、厄介な動物としてみなしてしまうことはありえないことではないと思いますが、もしそのような差別を扱うとしたら、なおさら象にすることはないのではないでしょうか?同じ人間を動物の象のように扱うことの残酷さが明確になるのでは?
「居間には象(アジアゾウ)がいる。」というト書きは面白いし、それをどう空間に存在させるかも見ものです。その大胆さは演劇ならではの発想です。大きなウソのつき方。「象がいる」という時間をもし実際の人間がやるとしたら、それは「象のふりをしている人間」が舞台上にいることになります。ロボットや大きいセットでそれを表現するのかもしれませんが、いずれにせよ、私たちは「本物の象はここにいない」という事実を認めるか忘れたふりをします。これは想像力を必要とする時間であり、とても面白いと思うのですが、ならば『裸の王様』的に、現実(象は劇場にはいない/象の振りした俳優がいるなど)への認識が転回するような瞬間を味わいたかったです。「象だ(=立派な服の王様)と言われている父は象ではなく人間(=裸の王様)であった」という当たり前のことが、この物語を経た後はそうは思えないというような形ででも。もちろんそうじゃない形でもいいです。いずれにせよ、「象がいる」と書いてしまったからには、そのウソにどう決着をつけるかが戯曲を書く苦しみであり、喜びだと思います。
『犬と独裁者』
スターリンの評伝劇を書くブルガーコフ(ウクライナ出身)の評伝劇。冒頭を読んですぐに前回の『カレル・チャペック?水の足音?』の鈴木アツトさんの作品だということはわかりました。権力者と芸術家の間のお互いに影響力を持ちうるからこその緊迫した関係やブルガーコフのイマジナリーフレンドのように現れる若いスターリンの幻影やブルガーコフを支えた妻や仲間たちなど、どれもキャラクターとしての書き分けや役割も明確です。ただし、これは前作とほぼ同じような構造であることがよくわかります。そのことから、権力者の近くにいて戦争や圧政の中で過ごす芸術家はこのようなパターンで生きるのだと想像することはできました。しかし、それはやはり「評伝劇」としてのパターンが前面に出てきてしまい、ブルガーコフという作家個人の存在やその時代が読者や観客に強い印象を与えるということにはなりにくいでは?と感じました。ただ、このようにある距離を保ちながら人物や時代を考察しつつ物語を編むというスタイルだからこその安定感はあり、優秀賞としての授賞に異存はありません。おめでとうございます。
『迷惑な客』
男二人と時々女が一人、ファミレスとファーストフード店と牛丼屋をローテーションで行き来するような日常の話。この作品を大賞に推しました。ほとんど雑談のように話が進むのですが、その会話の面白さを追っているうちに彼らの関係性や背景や現在の状況などが見えてきます。阪神大震災や無戸籍者、学習障害の問題に直面せざるを得ない登場人物たちは、制約を強いられながら生きています。この作品は、彼らの困難についての認識を読み手に与えると同時に、逆に読み手側からの共感による連帯を拒むようなしたたかさも併せ持っています。登場人物たちが愛らしくも鈍感ではなく、「弱者」というレッテルを「笑い」によって弾き返す強さがあるからです。また、ばったりドンキホーテで遭遇した元カノが昔と違うシャンプーを買おうとしていたという話題と、ホヤと人間の生物学的な近さについての話題などが並列されていく会話には、作者のスケール感の操作も巧みだと感じられるものでした。
別の視点で、審査会の中で話題になったのは、この作品も含めて今回のノミネート作のうち三本(五本中)の作品に流産という出来事が入っているということでした。もちろん現実に起き得る出来事ではありますが、悲しい出来事として使いやすいと考えられているとしたら安易かもしれません。私は全体を読んでそのように感じた作品はありませんでした。そんな中で、この作品には登場人物の無戸籍者の男が流産に直面することになります。人間が発明した「戸籍」という分類の前に胎児という生命があり、その事実は男を鼓舞しましたが、しかしそれが失われたという事実は、アイデンティティが揺らぐほどの強い意味があったと感じました。ラストの、牛丼を食べる前に手を合わせる描写に、明確な鎮魂の意志と希望を読み取りました。大賞にふさわしい作品です。おめでとうございます。
1976年生まれ。兵庫県出身。
1995年、市民参加事業で演劇を開始。1997年、アマチュア劇団主催の演劇塾に入塾し、2003年まで活動する。
2019年、『たらちねの僕』が「日本の劇」戯曲賞で最終候補になる。
2021年「日本の劇」で佳作、2022年に受賞作『再生』のリーディング公演を行う。
2023年、H.H.G+により『たらちねの僕』を上演。
1980年生まれ、東京都出身。劇作家、演出家。2003年に劇団印象-indian elephant-を旗揚げ。
2015年、国際交流基金アジアセンター・アジアフェロー。同年、文化庁新進芸術家海外研修制度の研修員としてロンドンへ留学。2019年、ポーランド・ドルマーナ劇場で児童向け演劇作品『CiufCiuf!』(作・演出)を滞在創作。主な作品として、『エーリヒ・ケストナー~消された名前~』『藤田嗣治~白い暗闇~』『ジョージ・オーウェル~沈黙の声~』『カレル・チャペック~水の足音~』など。著書として『犬と独裁者』がある。新国立劇場こつこつプロジェクト第三期に演出家として参加。
第10回北海道戯曲賞贈呈式
実施日 令和6年4月18日(木)
会 場 北海道文化財団内「アートスペース」
受賞者 「大 賞」 七坂 稲
「優秀賞」 鈴木アツト
七坂稲
鈴木アツト
募集期間 | 令和4年7月1日~9月1日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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応募数 | 142作品(新規77作品) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年齢別 |
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都道府県別 |
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江本 純子 | (毛皮族・財団、江本純子) |
桑原 裕子 | (KAKUTA) |
瀬戸山 美咲 | (ミナモザ) |
古川 健 | (劇団チョコレートケーキ) |
松井 周 | (サンプル) |
大賞 | 『チェーホフも鳥の名前』 | ごまのはえ | (大阪府) |
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優秀賞 | 該当作品無し | ||
最終選考作品 | 『畦道』 | 大原 渉平 | (滋賀県) |
『おもいでは君のこころの |
佐藤 礼一 | (東京都) | |
『カレル・チャペック ~水の足音~』 | 鈴木 アツト | (東京都) | |
『ゴンドラ』 | 池亀 三太 | (東京都) | |
『脱出は第二宇宙速度で』 | 萩谷 至史 | (東京都) |
“希望の大地”の戯曲賞こと北海道戯曲賞の大賞作品は、北海道での上演の機会が提供される。希望の大地で上演することで未来につながる作品とは何だろう?戯曲はどこからやってきてどこに/誰に届けるのか?
『チェーホフも鳥の名前』
各審査員から高い評価を集めたこの戯曲だが、わたしは釈然としなかった。
ロシアと日本の間で繰り返される政治的ないざこざにより翻弄された市民の100年に渡るドラマ@サハリンを描いている。北海道から更に北に位置するサハリン島への興味とそのボリュームに敬意を抱きながら読み始めたが、とても骨が折れた。サハリン島の歴史と人々の行き交いがそれだけ複雑なのだろうが、資料の人物関係図と歴史年表をいちいち確認しないと呑み込みづらい。この確認作業のために、肝心の物語に全く入り込むことができなかった一読目。タイトルにチェーホフを用いていることも相まって、教養人ならば知的虚栄心あたりをくすぐられるのかもしれないが、無教養のわたしは、読んだ時間のしんどさも加わって「アカハラか!」と毒づいてしまった。
二読目は、史劇として捉えた。劇中にインサートされる年表テロップの存在に引っ張られたのだ。史劇ならば、政治的な踏み込みが甘いのではないか。第二幕、現代の日ロ首脳陣の名前を使ったカリカチュア表現のハンパさに疑問をもったし、第四幕で描かれる韓国人親子の別離の経緯は唐突であり、史実からの影響というより、作劇上のご都合設定ではないだろうかと不可解だった。
それと。この戯曲は日本人俳優、あるいは日本語を母語とした俳優たちが演じる前提で書かれているようだが。第三幕、韓国人ヨンやロシア人アンドレイのセリフが、カタコトの日本語のように表記されているのはどうなのだろう。一方、第一幕はロシア語で会話がなされている設定と思われる。そこで登場する日本人・塩川は流暢な関西弁でロシア人と会話を交わしている。(これを単なる「演劇のおもしろ」として納得していいのか?)母語ではない言葉を喋る外国人の役を俳優が演じる際は慎重に思慮するポイントになるかと思うのだが、この戯曲での表現でよいものか、心配になった。多民族の行き交いを扱っている戯曲なだけに尚更。
また、民族の行き交いというテーマでこの戯曲を読んだ場合、日ロ関係にもっとも振り回された民族は、日本人の労働力としてサハリンにやってきた韓国人たちではないかとの感想を私は持つ。それゆえ政治・戦争情勢の理不尽による暮らしの翻弄を描く際に、サハリン島の悲哀としてもっともフォーカスを当てて欲しいのは韓国人家族、ここを詳細に描くことによって今も続く日ロ歴史の犠牲と理不尽さが見えてくるのではないか。でも、この戯曲において韓国人家族の描写はそこまで多くない。それは多くの人物たちを描いているゆえに、他のエピソードとのバランスを考慮してなのかもしれない。惜しいのは、二幕にて宮沢賢治の登場と韓国人親子の登場がカブってしまって。ここ賢治いる??と声大きめに突っ込みたい。二幕での賢治は、有名人てだけでキャスティングされた集客要員?賢治がいれば観客の掴みはオッケー?ただそのために登場させたんじゃなかろうかと邪推する。賢治周りのエピソード、それは実に賢治なくても描けること。賢治の背後で登場している韓国人親子の存在は霞み・・賢治時間いいから、親子を描いてって気持ち。二幕のラストは賢治の詩を用いているが、演劇的というより博物館的な存在感。賢治役の俳優が紅白歌合戦のトリのごとく謳う景色を想像してしまったわたし。そんなエンターテイメントな戯曲なのかしら・・。(詩は上演ロビーに飾っておけばいいのでは・・)
改めて考える。タイトルの「チェーホフ」は知的教養層の心を掴み、アベやプーチン等の政治家実名出しは中年層が喜びそう。その上で賢治まで登場すれば大衆や子供もばっちり・・って、あらゆる層をターゲットにできる。つまり、とても広い世代にアプローチできる戯曲として構成されていることに気づいた。であるから、エンタメ度の高い、かつ、教育的にもアプローチできる、このバランス。そうか、この戯曲はサハリンの100年をガン見して政治背景と共に骨太に描こうとしているのではなく、もっと柔和な「スケッチ」なのかもしれない・・・何度目かの通読でようやく辿り着いた。ゆえに、政治的踏み込みも深くなくてよく、人物たちのドラマも緻密さよりもダイジェスト的で大味な描き方であった方がフィットする。サハリンの歴史を概略として知ることができて、笑いと涙を誘うドラマがあり、パンチは弱いけどわかりやすいギャグ表現を楽しめて、賢治の詩に癒され、チェーホフを通じて未来と過去への思いを馳せることができる・・演劇的大衆要素ぜんぶ乗せな・・トッピング山盛りな(ケチじゃない=太っ腹な=おおらかな)戯曲なのだ。きっとこの戯曲から得られる観劇の充足度はだいぶ高濃度であろう。
あともうひとつ、実はここからが本題なのだが。この戯曲の第一幕。チェーホフが残したルポタージュ『サハリン島』を参考文献に、『三人姉妹』にあるヴェルシーニンのセリフが生まれた背景を創作したエピソードが描かれている。
この第一幕は、三人姉妹にもチェーホフにもピンとこなくとも、極限地を訪れた作家と住民たちの交流のひととき、を描いている点において鮮烈な時間を切り取っている。ちょうどアーティストインレジデンスで十勝の田舎町に滞在中だった私なんぞ「わかるわ~チェーホフさん」とまさかのチェーホフ共感を呼び起こすくらい楽しいシーケンスだった。
『三人姉妹』からの引用・ヴェルシーニンのセリフは、『チェーホフは鳥の名前』第一幕以降も何度か登場し、登場人物たちの時間をグルーする。(サハリンの刑務所長がチェーホフに言った言葉→その場にいたギリヤーク人が娘の結婚式のスピーチで引用→関係子孫である登場人物たちの心にも留まり→ロシアでは「三人姉妹」のセリフになった)
このセリフを勝手ながら私なりに要約すると「今はどうしようもない連中しかいないこの場所で、教養のある私たちのような人間は少ししかおらず、その声は無知な大衆にかき消されてしまう。でも、わたしたちのような人間が少しでもいれば、少しずつ増えいずれ大多数を占めるようになり、二三百年後の世界はきっと素晴らしくなるだろう」・・てゆう。*正確なセリフは公開される『チェーホフも鳥の名前』にてご確認ください。
要するに未来を信じて頑張ろうってポジティブメッセージでもあるのだろうけど、その前提には教養ある人=特権者、教養ない人=市民、を選別していて、未来を作るのは特権者だと言っているようにも聞こえてわたしはヤな感じを受ける。
本家・チェーホフ作『三人姉妹』でのこのセリフの解釈はさておき、この『チェーホフも鳥の名前』では、チェーホフ自身はこの言葉に拍手をした上で、でも自分は特別ではないと返答する。しかしサハリン在住者にとってはこのスピーチは感動的に受け取られており、チェーホフの芝居を目撃したロシア人役人をとってもしかり。この物語において、このセリフは、前向きに受け取るべき言葉として運用されているような印象をもつ。一方で、日本人のための労働力としてサハリンにやってきた韓国人家族のひとりが「その素晴らしい社会のために、働かされるんだよ」とつぶやくシーンもある。
わたしは『チェーホフは鳥の名前』を何度か読んでも、作者がこのセリフを使って提示したい意図を読み取れなかった。作者の意図は重要ではなく、それぞれ「受け取り方違うよねー」という群像的な扱いとして観客に投げ、その言葉の存在している感触を受けて、君たちはどう考えるか?とそれぞれに委ねられているのだろうか。
答えは時代ごとに変わるだろう。だから答えを掘り下げることをこの戯曲はしない。それが、この作品の柔和さやおおらかさに通じているのであれば、わたしはこの戯曲の大賞を祝福したいと思う。作者にとって「チェーホフなんて鳥の名前に過ぎない」気がしてくる。つまり、この作品、全然アカハラじゃない!
この戯曲の希望の大地での上演を心より楽しみにしています。二、三百年後の未来が素晴らしくなりますように。
(2024.4.7 追記)
上記の選評にて、「アカハラ」(アカデミックハラスメント)という言葉を誤用しておりました。
誤用の問題もさることながら「ハラスメント」の深刻さを軽視したような表現も浅はかだったと考えます。
ごまのはえ様、北海道文化財団様、この選評をお読み頂いた皆様、心よりお詫び申し上げます。
いつでも慎重に言葉を選ぶことを心がけておりますが、全く至っておらず、恥ずかしいです。
「賞の価値」や審査員がただ権威として持ち上げられすぎないよう、私自身の選評に関しては「バカ文/駄文/火にくべろ」とこれまでプレゼンしてきましたが、無意味なガードでした。文字通り本当のバカ文を提示していまい、反省しています。
私は何を伝えたかったのか。
「アカハラ」を用いない表現で、下記に改めさせてください。
いわゆる知識層に合わせた作品ばかりが上演されていく懸念について、審査の際に考えました。
『チェーホフも鳥の名前』に、知識がある人向けの「前提」が潜んでいるのではないかと、警戒してしまったのです。
しかしこの戯曲は、決して偏ることなく、あらゆる層の観客を包み込むであろう、とても器の大きな作品だと読み至りました。知識の必要性に迫られているなどと、ひるむ必要などなかったのです。この戯曲がやさしく教えてくれます。
上演の成功を、心より願っております。
『カレル・チャペック~水の足音~』
作者自身の信念/理想/自己矛盾が凝縮された詩的なセリフがよく現れる。それは誠意に溢れていて、正論で、本質的で、共感もするし、とても素敵な言葉が多いのだけど、ストレート過ぎてアタックが強い。セリフとして届いてくるよりも標語やスローガンのような色気のない言葉として聞こえてきてしまう。
饒舌な説明セリフは戯曲にとって魅力的ではないように、饒舌な説明ト書もまた。景色/人物の状態/演劇的な仕掛けに触れるト書きが数々あるが、作者自身のイメージが決まり過ぎていて、具体的には立ち上がるのだろうけど、それらの大概が演出や演者のクリエーションの領域に及ぶものであるし、引いては観客の想像力の介入も許されないような城壁を固められているようで悲しい。
民主的な状態を目指すもがきではなく、人権派のヒーロー像が描かれている印象。主人公の部屋の背景に「城」が見えるト書きがあった。どことなく、この戯曲は潜在的にマッチョなのだ。文化も、特権階級や知識層が作っていくものではなく民によって民主的に作られていくものだと思う。作家・カレルの葛藤は特権階級的で、共感しづらい。カレルもまた、チェーホフのセリフかのごとく、未来に対して「書き続けなきゃ」と言う。未来への使命感としては素晴らしいけど、特権性ある人間がこれを言うとヒーロー的になる。「(作家は)文化の水を撒く」、とても美しいんだけど、書くこと自体に特権性が漂う。特権をもたない民にとっての「書き続けなきゃ」はより切実さを伴うかと思うのだが。
もうひとつ、昨年の選評から続く蛇足メッセージとして。わたしの乱暴な演劇観をぶつけると、作者の評伝劇シリーズにおけるひとつのパターンの集大成として『アツト・スズキ ~○○~』が観たい。そこに作者の揺るぎない信念と未来に対するポジティブな葛藤を存分にぶつけて頂きたい。~~(ニョロニョロ)の中に入る言葉も楽しみだ。
『ゴンドラ』
都市であろうと田舎であろうと、社交が限られた環境に身を置き続けていると、半径5メートル以内の人間に対して劣情を抱いてしまう社会問題的“あるある”。客観的に言わせてもらえれば、主人公はDV/ハラスメント予備軍の危険も高く・・なかなか笑えない状況だ。その状況を逆手にとって笑わせる構造をとっているのかと考えるが・・・・やはり笑っている場合じゃないのが現代のモラルだし空気だ。
でも。主人公・孝介の苦しみの根本はこの空気やモラルへの適応できなさにあると思う。こういう苦しみに対して救える演劇になりえる期待と必要性をわたしは予感した。けれど、現時点でこの戯曲がそうなってないのは、主人公の劣情を恥ずかしげもなく「恋心」と表現できる作者のイノセントさ、かもしれず。
それにしても。劇の結末にある「ゆっくり、ゆっくり」はとても好きな表現だった。(人権ほか、あらゆる諸問題に対する)意識の高さとその実践を急かされる現時代にとっては忘れがちな「やわらかさ」だと、ありがたく感じた。
『畦道』
一方。この戯曲の主人公・ノリオは、人間本来の野蛮さを堂々と自覚した上で、もがいている。うわべの世界からは到達しない深淵を覗きこもうとする姿勢は、とてもがむしゃらだ。そのエネルギーの強さにはただ感服してしまう。
「人間であるか?」の答えを得るために、自ら「人間」を作り、自ら「建国」するほどのエネルギー。神ですよ、それ。実に歪な万能感だし、危険も感じてしまう。(ノリオが母親から「バケモノ」と呼ばれてしまう所以かと)
ただし、ノリオの行動動機の根本は、この(今生きている)世界を変えたいがゆえの建国や人間の作り直しではない。ただこの世界にいる他の人間たちと自分のことを「納得したい」のだとわたしは解釈した。ラストシーンの手前、ノリオが泣いている姿に対して「ニンゲンらしい」と表する作者からの示唆からそのように受け取った。納得したいがためのノリオをピュアで動物的だと魅力に思うか、ますますワガママな神感覚だと呆れるか。この戯曲へのアプローチや好意が変わるところかと思う。わたしは読み返す度に興味が増幅したが、ノリオって主人公をさらに俯瞰する作者の視座が欲しかったところ。
以下はラストで問われた観客としてのコメント。人間もみな動物だと思えば、ノリオは少し楽になるのだろうか。ノリオ自身が、自分以外の動物的生命「人間」たちをも、すごく潔癖な「人間」目線で見ているように思う。ノリオよ!動物になれ!と言いたい。
『おもいでは君のこころの襲鱗』
やりたいことを詰め込んだ、荒削りすぎる令和の唐十郎のよう。戯曲賞の選評としては「稚拙」という言葉を選んでしまいそうになるけどそれは違う。この戯曲から発せられる熱量、もっと飛躍しそうな詩情、現代社会に対する問題意識(まじめさ)はとても素敵。さらにクレイジーで誰も理解できないような境地に連れていってほしい。応援します!!!
『脱出は第二宇宙速度で』
戯曲とシナリオ、は少し意味を違えるものとわたしは認識しているのだが、この作品はドラマシナリオとして、とても面白く読んだ。状況や背景を説明するための情報・具象セリフを減らすことで戯曲としての魅力が増すのではないだろうか、どうだろうか。このシナリオの端正な骨格も際立つのではないだろうか。でも戯曲としての美しさにこだわる必要もないくらい、作家としての才気を感じた。
親子の、労働の、教育の、社会の不安が詰まっている、問題だらけの巣窟として「塾」という設定を選んだことがとてもよい。
「塾」と「劇場」。地方都市には劇場よりも塾の方が多く存在する。塾も劇場も、未来や希望を作っていく場であることは一緒。この戯曲で描かれているように、あらゆる不安の膿がたまった閉塞感がある場所として「塾」を想像する。「劇場」はその膿を受け止め、解放することができるだろうか。この作品を通じて、「塾」と「劇場」が出会う妙を思うとときめく。「塾」が「劇場」に合体することで、その閉塞感から脱出するための第二宇宙速度を獲得できることを願う。
以上。毎年表明しているように、今回も大事なことをお伝えしておきます。
わたしの演劇観満載の選評なんて“火にくべてしまえ”。
今年は3年ぶりに札幌で対面形式の審査会が行われ(残念ながら古川さんのみリモート参加でしたが)、有意義な審査会となりました。
オンラインとて手を抜くことなどもちろんありませんが、審査員おひとりおひとりの候補作に抱く手触りというものは、電波を介して行われるやりとりでは伝わりにくいものです。誰がどんな批評に頷き、また首をかしげるのか、些細な相違も確かめ合うようにしながら審査に臨みました。
それゆえか、あるいは候補作の力か(こちらでしょうね)、私が審査員をやらせていただくようになって5年になりますが、今年は異例の早さで大賞が決定しました。
『畦道』
カエルの声、泥や草のにおい、あるいは男の汗じみなど五感を刺激するディティール、不快指数高めのじわりとした湿度ある情景描写がうまく、過剰に露悪的だと感じる部分はあるものの、面白く読みました。
ノリオが「あるも、ないも、曖昧なもん」と語るように、ノリオの見る世界と観客側から見えるものの間に剥離が生じる瞬間、そこにあるもの・ことを観客側が想像で修正する作業がたびたび起こるのは、観客に自らの無自覚な偏見や思い込みを見直させ「ニンゲンとはなにか」という問いへと自然に向かわせる仕組みとして巧みだと思います。
ただ、妹のみどりを“かたち”でしか見ず「ニンゲン扱い」しない親に憤るノリオ自身もまた、みどりに子どもを作らせようとし、人形のみどりを抱いて踊り、みどりの真の声を聞かない。結局はノリオもニンゲンの“かたち”にこだわっており、みどりの内なる人間性を無視しているという部分は、結局どうなったのでしょう?この自分本位で未熟な愛情、言い換えれば偽善ともいえるものにノリオが終盤思い至り、自分も忌むべき両親と変わらないと内在批判に向かうことでもう一歩ニンゲンを深掘りしていくのだろうと想像していたのですが、そこへは至らず、神のような目線の抽象論で美しい終わりを迎えてしまったことには深く疑問が残りました。
『脱出は第二宇宙速度で』
主となる舞台が学習塾とキミシマのアパートという、非常に小さな世界だけれど、そこには「ここではないどこかへ」という若者たちの普遍的な切望が詰まっており、その切り取り方や空気感が現代的でした。大人には伝わりにくい若者の熱量を、よく理解されてるのだと思います。こうして、若者、とひとくくりにしてしまうことが乱暴だということもこの作品ではきちんと見つめていて、どこへはみ出そうにも打算を強いられる契約社員、コストで物事の是非を測りプライドを保つ大学生、不安定な親の鬱屈を浴びる中学生など、それぞれ異なる立場の若者が抱く不安を緻密なレイヤーで描き分ける力に感心しました(肉体を酷使し社畜化しても部下と心が通じ合えない塾長の不安も)。それでいて誰にも安易に寄り添わず一定の距離を置き、時に冷酷に突き放して描く視点も転じて誠実だと感じました。
夢や野望のそばに絶えず無力感がつきまとい、一足飛びに宇宙規模で「脱出」を語らうも日常の安全圏さえ抜け出せない。そんなやるせない物語のおわりに「えいっ」と恋人をひきよせる小さなアクションが刺さります。そこでかの名詩を引用するのは、この物語にあまりにビタハマりで、せっかくここまで作家自身の言葉で綴っていた部分に説明がつきすぎてしまうのがかえって勿体ない気もしたのですが、「えいっ」がグッときたのでいいのかな。
『ゴンドラ』
親の介護、適応障害、ワンオペ、引きこもり、いじめ、誰にとっても決して他人事ではないこれらの社会問題が山盛りでありながら、三人だけのミニマルな世界で描く試みには強く興味を惹かれました。シチュエーションがうまいので、会話劇として丁寧に描けばきっと面白い作品になるだろうと期待して読みました。
ですが読み終わったとき、私はこの作品が一級のハラスメント・スリラーに思えました。巷のニュースで訪問介護は危険と報じられているのはこういうことか。と、妙に納得してしまい……そのくらい遙に対する孝介の迫り方が私には恐ろしかったのです。
勤務中の女性を既婚者だと知った上で臆面もなく口説き、遙にとって恐怖症である観覧車へ執拗に誘い、他人の子どもを「愛せる」「愛せない」と付属品扱いして、過去のトラウマが掘り起こされるや当事者でない相手を被害者しぐさで詰問する孝介。そんな孝介に歯止めをかけるどころか後ろ盾になって危険行為を肯定してしまう妹の朱音にも、一方的な好意をあまりに無防備に受け入れてしまう遙の危うさにも不安を覚えました。
もしも自覚的にサスペンスとして描いているのであれば、凄い。観てみたい。ただ、どうもそうではなく、ハートウォームなヒューマン・ドラマとして描いているのでは?と思うと、個人的な価値観の違いかもしれませんが私は推せませんでした。また、三人とも会話が不必要に遠回りし各々好き勝手に自分語りをしていくところや、介護される父親の設定が都合良くぼやけているのも、評価が辛くなってしまった点です。
『カレルチャペック~水の足音』
カレルの著作と平行して彼の半生とその時代を描くという手法は昨年最終候補となった藤田嗣治の物語と同様ながら、私は前作よりずっと面白く読みました。登場人物がそれぞれ魅力的に映り、どのシーンも特に冒頭のやりとりに惹きつけられました。膨大な資料を精査しながら真摯にエピソードを積み上げていく手腕、戦争を扱いながらむやみに残酷な展開に走らない作家の善なる心にも好感を抱きます。
ただ、偶然誰もが同じ時間帯に集まり重要な話をしていくということがくり返されると不自然さを見過ごせなくなってくるので、中盤からの人の出入りには工夫が欲しいです。また、劇中頻繁に入る心象風景の音響(効果音?)は過剰で、説明的に感じました。山椒魚の水音やそれらを引き連れてくるギルベアタの神秘性を効果的に見せる意味でも、使いどころはポイントを絞った方が良いのではないでしょうか。
場面ごとに感動する箇所は多々あるのですが、結末に向かう流れで「きっとこの主人公は描き続けるのだろう、政治に迎合し、あるいは反発しながらも、命を燃やして死ぬまで描くのだろう」と、つい前作に倣って先の展開を読んでしまい、その通りになっていくことにおいて、史実に即してるとはいえ展開がワンパターンではという指摘が審査会で挙がりました。作家の過去作を読んだことがあっても常に候補作は単独で評価すべきだと念頭に置いています。が、時代に翻弄される姿も含め、人物造形が予想の範囲内で収まってしまうのはやはり惜しいと感じます。
『おもいでは君のこころの襲鱗』
荒れ狂う海とナイトクラブの喧噪が交差して、大波が渦となり混沌の人間社会を作り出す。同時多発で進むオープニングのやりとりはどれも無意味で拙いけれど、これから繰り広げられるものが社会の渦に飲み込まれては立ち現れる泡沫の声、見て見ぬ振りをされてきた人びとの叫びであることが伝わってきました。この、何やら追い立てられるような勢いと熱量が終盤までトップゲージで進んでいく感覚は、作家自身の若いエネルギーを体現しているようで良かったです。ほとばしる怒りのような感情に煽られてこちらの気分も波立ってくる。暴力的に挑まれるように読み進める。しかし……なんとなく雰囲気で進んでいく場当たり的な展開と、どこかで聴いた歌謡曲をなぞるような空々しい台詞に、徐々に冷めていってしまいました。
作中ではLGBTQ+や障害者差別について踏み込んで描こうとしており、その心意気やよし、ではあるのですが、マイノリティを囲む人びとを限りなく意識の低いステロタイプとして描くこと。あるいはジュディ・ガーランドやストーンウォールの反乱などのモチーフの扱い方。これらの表現に、ケンカした経験のない人が見よう見まねで描いたバイオレンス漫画を読んでいるような居心地の悪さがありました。作中表現のいくつかに作家自身の理解の浅さが透けて見えてしまったからかもしれません。
戯曲の冒頭にセンシティブな表現におけることわり書きがあることからも、作家が慎重に表現活動へ意識をはらっていることがうかがえますが、「わかってますよ」という目配せに留まらないためには、そんな注釈以上に、もっとあなたの心が理解した部分で、あなた自身の痛みを持った言葉で描いてほしいと思いました。作中にはそういう部分もあったので、今後に期待しています。
『チェーホフも鳥の名前』
二幕まで読んだ時点で、この作品を一番に推したいと思いました。場面の設え、人物配置、会話、どれをとっても抜群にうまい。プーチン犬、シンゾウ犬をめぐるマウント合戦には審査員から辟易する声もありましたが、風刺画のようなおかしみがあり、愚にもつかない牽制で互いに素直になれない男女のやりとりが私は好きでした。
嗚呼、羨ましいほどの才能!と惚れ惚れしながら読み、異なる人種、文化、言語が入り交じり、サハリンで過ごす時の複雑な豊かさに「良い経験、させてもらってます……」とこうべを垂れました。
ただ三幕以降、幕間劇が入ってからは、やや頭の中が忙しくなりました。
これは誰の娘で、どこにいてなにをしてと、幕が進むごとに広がる人物相関図を整理する時間を要し、今は読んでいるだけだから頭では理解できるけれど、実際に舞台上で見て頭と心が追いつけるかしらんと少し自信がなくなりました。まあ、追いつけなくても拾える部分だけ拾ってくれりゃ良い、という潔さとも取れましたが。
また、せっかくひとつの地を舞台にしたシチュエーション芝居でこれだけ魅せて来れたのに、人物が増えることで当然ながら場所が方々に移り、多くの劇的な出来事が独白で語られてしまうことに物足りなさも感じました。独白のエピソードも台詞そのものも、とても魅力的ではあるのですが、だからこそ、手が届ききらないもどかしさ。審査会では長すぎるという意見もありましたが、私はむしろ、この登場人物たちの人生に寄り添って描くのであれば短すぎる、と思ったのです。上村源太やチョムスンの半生は独立した物語にしても良いほどの濃度ですから、一作に詰め込んでしまわずスピンオフで、いやシリーズ物として描いてもいいくらいだし、作家自身もまだまだ描けると思いつつ留まった気がしてなりません。シリーズを通して彼らの100年の歩みに浸かり、最後の親子エピソードへたどり着いたら感慨もひとしお……と夢想してしまいました。
全候補作を拝読して予測した通り、『「チェーホフも鳥の名前」を大賞に推す声が多く、私も心から賛成しました。
一方で優秀賞については今年もいくつか意見が分かれ、実力のある作品を選ぶのか、内容も技術も未熟なれど新たな可能性を感じる作品を選ぶべきか、そもそもどんな対象に向けて優秀賞があるべきか?という根本へも立ち返りつつの議論が交わされました。
A、B、Cと三段階の事前評価に於いて私は『カレルチャペック~水の足音」と「脱出は第二宇宙速度で」にA評価をつけていました。安定した実力として前者を、個人的な好みも含めて後者を強めに推し、他の候補作も審議に挙がったものの、一作を選ぶ上では甲乙つけがたく。結果として、大賞作に肉薄する強度の戯曲という点ではいずれもやや及ばずというところで、優秀賞は該当作なしとなりました。
しかし全体を通しては高度な水準で推したい作品がいくつもあり、嬉しかったです。
ごまのはえさん、おめでとうございます。
今回の審査会は有意義な時間でした。審査員のみなさんの視点がそれぞれ違っていたので、話していて気づかされることが多く、作品の理解が深まったと思います。とはいえ、5人の視点と異なる視点は無限に存在していて、それを見落としている恐れはあります。審査というものの難しさを感じるとともに、ひとつひとつの作品の可能性をできる限り発見したいという姿勢で審査しました。
『脱出は第二宇宙速度で』は塾の人間関係の描写に現実味がありました。大人たちの暴力や抑圧が子どもに与える影響もわかりやすい形で描かれていました。登場人物全員が苦しく厳しい状態に置かれており、それがこじれていく様子も説得力があり、読み応えがありました。一方で、主人公が片足を突っ込んでいる平和団体の描かれ方が類型的なのが気になりました。彼らの主張が大雑把で、最初から愚かなものと描かれているように感じました。平和団体の主張に納得できる部分があったほうが、後半の葛藤が生きてくると思います。また、最後に平和団体のデモに車で突っ込んだのが、主人公たちが悪として認識する人物だったのが残念でした。この人物も社会の被害者であることがもう少し見えるように描くか、もしくは善なるものとして描かれていた人物が最終的にそのような行動をとるように描くかすれば、人間と暴力の関係がもっと鋭利に伝わってきたかもしれません。
『ゴンドラ』は家を舞台にし三人芝居ですが、まず設定で引っかかりました。隣室にいる要介護の父は話すことができるようですが、彼は登場せず、彼自身に聞けるようなことを息子に聞いていることに違和感を抱きました。息子は大きなコンプレックスを持っている設定ではありますが、その自分の考えを言える若い男が劇全体を支配しているのが怖かったです。彼と共にいる女性ふたりが、どちらも彼の考えを結局受け入れているのも奇妙でした。女性の知能を低く設定したり、女性にケア的な役割を担わせたりするのは、ある程度意図的だとは思いますが、そこから何を描きたいのかが十分に伝わってきませんでした。なんとなく暖かい雰囲気で終わっていますが、たいへんグロテスクな内容で、だとしたらグロテスクさがわかるような演出をしなければならない作品だと思います。戯曲上にそのような指定はなく、もしかしたらいい話をして書いているのかもしれないという疑念が残りました。
『チェーホフも鳥の名前』は、静かに時間が降り積もっていくような戯曲で、読み終わる頃にはその長すぎる時間に思いを重ね、落涙していました。大きな歴史の中で埋もれてしまいそうな人間ひとりひとりを、実感を持って描いていて好感を持ちました。特に前半をチェーホフ的な筆致で描く趣向が面白かったです。作品全体としても登場人物と作者の距離感がチェーホフの俯瞰した人間描写と似ていると思いました。お恥ずかしながらサハリンについては、かつてロシアの流刑地でありチェーホフや宮沢賢治が訪れたことがあるくらいしか知りませんでしたが、この戯曲を通して、国のはざまでさまざまな民族の人たちが暮らしていたこの土地を自然に理解することもできました。とても長い作品ですが、モノローグを入れたり、異なる場所での描写を行き来したり、テロップを使ったり、と描き方を変えて観客を惹きつけているのもよいと思います。
『カレル・チャペック~水の足音~』は、非常にわかりやすい戯曲で読んでいて迷子になることはありませんでした。しかし、一方で説明台詞が説明として「見えてしまって」いると思いました。登場人物そのものも説明のための道具になっている印象がありました。誰が何人であるかということをわからせる前に、どんな人間かが見えてくればいいなと思います。作品全体としては、言語と国家の関係についてなどを興味深く読みました。気になるのはラストです。カレルが「書き続けなきゃ」と言いながら息絶える描写はヒロイックで美しいですが、それでいいのだろうかという疑問を抱きました。評伝劇が恐ろしいのは、作者よりも深い論考をしていたかもしれない人物について、作者自身の思考の範囲内で描かなくてはならないことです。特にこの作品は作者がカレルを英雄視して、同調しているようにも感じました。カレルの思考に沿うだけではなく、批評的な視点から見てみたらもっと多角的に描けるかもしれません。
『おもいでは君のこころの襲鱗』は、演劇的な飛躍は随所にあるものの、全体的に思いつきで進んでいる作品という印象を受けました。特にストーンウォールの反乱と性的少数者に関する主題(と思われる部分)と、船長と埋立地の描写がそれぞれ独立していて、相乗効果がなかったように感じます。過去のいじめに関することも情緒に流れて終わっており、向き合っていると感じられませんでした。
『畦道』は、不快な語り手によって語られる不快な話で、そこに猥雑なエネルギーがありました。観客の良識を試してくるような作品だと思います。親をつくる、国をつくる、などの発想も刺激的でした。ただ、後半に行くに従って、この挑戦的な不快感が、ただの不快感になってしまいました。というのも、みどりという主人公の妹が主人公に利用されるだけで、彼女の肉声が見えてこなかったからです。救いのない閉塞的な村の中で、もっとも弱い立場に置かれたみどりがすべてを覆してくれたら、もうひとつ違うステージに行けたのではと思います。
今年は最終候補作の六編それぞれ、強い個性があり。どれも単純に面白く読ませてもらいました。個性があるというのは素晴らしいことです。長く続ければある程度自然に巧みにはなります。個性を獲得するということはそれよりもはるかに難しいことのように思います。ご自分の個性を今後も大事にしていただきたいなと思います。
『脱出は第二宇宙速度で』
現在の若者を取り巻く状況や、学習塾という舞台がリアリティをもって丁寧に描かれていて好感を持ちました。自分の知らない世界を覗き見ることができるというのは、演劇の魅力の一つです。考えてみればほとんどの大人は、現在の塾がどういう世界なのかについて何も知らないわけですから、そういう舞台をちゃんと描けるというのは大きなメリットだと思います。また若者の厳しい状況について、程よい距離感で描いているのでとても伝わりやすいと感じました。
塾の世界が緻密に書かれている反面、市民運動団体に関しての描写が多少雑なように感じられてしまいました。落差があるので、どうしても気になってしまいます。それと精神を病んだトモノリという人物の描き方も、ややデフォルメし過ぎているようにも感じました。
以下は好みの問題です。キミシマは巻き込まれ型の主人公で、自分から動くというより常に変化する周囲に対応していく形で行動しています。これは最後の最後まで変わらず、そもそも最後のやりとりすら「人間はずっと変わらないね」です。そのシニカルな視点は非常に共感できるし、難しい今を生きる我々がそう結論するのも致し方ないとも思います。だからこそ、そこを超越する何かの破片でも、兆しでも、微香でも、見たかったと私は思いました。
『ゴンドラ』
とてもセリフのやりとりが安定している戯曲だと思いました。三人という少人数、アパートのリビングという限定された空間。そこを会話だけで見せていく確かな力量を感じます。達者だなというのが正直な感想です。三者三様。孝介といういかんともしがたい男とそれを取り巻く遥と朱音。バランスも良く、すいすいと読み進めることができました。人間という存在の駄目さを描きつつ、同時に愛すべき点も描く。現代的な人間賛歌の要素もあるのかなと思いつつ、どうも居心地の悪さも感じながら読みました。
その居心地の悪さの正体は、どうも世界が孝介に対して優しすぎるのではないかという疑問でした。リアルに考えると訪問介護の介護士さんを口説くって、相手にとってはとても恐い状況になりますよね。遥はそれに対し無自覚で、朱音は兄の恋を無邪気に応援しています。これはちょっとホラーを感じざるを得ません。そこを自覚的に狙っていたのなら、もっと分かりやすくした方が良かったと思います。
そこが気になると、遥の無知という造形も気になってしまいます。そう設定しなくても話は展開できたように思います。ともすると孝介という存在が、優しい箱庭に安住しているだけのようにも読めてしまいます。世界というか社会の厳しさがもっと目に見える形で出てきた方が親近感を持てたのではないかと思います。生きている以上人間は誰しも、好もうと好まざろうと世界と戦って生きていかなければいけないのですから。
『チェ―ホフも鳥の名前』
この戯曲が一番好みでしたし、完成度も高かったように思いました。サハリンという土地の歴史の特異性がよく描かれていて、とても感銘を受けました。特にチェーホフ編とでも言うべき一幕。賢治編とでも言うべき二幕が非常によくできていました。ロシア目線で見る辺境の流刑地サハリンを描く一幕。日本目線で見るフロンティア樺太の二幕。それぞれにチェーホフと宮沢賢治という歴史的人物を登場させながら、むしろ名もなき人物の方が生き生きとサハリンの地でたくましく生きるさまがとても面白かったです。
非常にまとまりの良かった二幕までと比べ、それ以降は視点があちこちに飛び、群像が描かれますが、これも第二次世界大戦という未曽有の大事件の影響をリアルに感じられる構成になっていたと思います。点描のようになるのも、戦争という個人が把握するには巨大すぎる事象を描くのに適した手法だと思います。
日露の境界であるサハリンの百年近い歴史を書くことによって、自分たちの足元に歴史が繋がっているという実感を得ました。一見、情報量が多すぎるようにも感じますが、それは一つ一つ全部を把握できなくても、この戯曲の重要な要素だと思います。大賞に相応しい戯曲だと思います。非常に刺激を受けました。
『カレル・チャペック ~水の足音~』
二年連続で最終候補に残るのは素晴らしいと思います。安定感があるということなのでしょう。巧みさを感じる戯曲でした。去年よりも、人間関係の描き方が面白くなっているように感じました。またチェコスロバキアとカレル・チャペックという題材に着目したところもとても良いと思います。戦間期のチェコスロバキアほど過酷な運命を辿った国家はそう多くないです。日本人にはあまりなじみのない歴史に果敢に挑んだ点は十分に評価できると思います。
登場人物それぞれにドラマがあり、人間模様がとても面白く感じました。その為、最初から最後まで飽きずに読むことができます。20世紀前半のヨーロッパを我々は知っているようで知らない。その世界を描くことは、それだけで興味深い作品になる可能性があるということだと思います。また、この後の歴史を多少でも知っていると、秒読みされた悲劇(つまりはチェコスロバキアの消滅)に物語がどう向かって行くのかという緊張感を感じます。そしてその時流に芸術家はどう抗うのか?という作品の幹である問いかけが生きてきます。
どうしてももったいないと思ってしまったのは、あそこがラストでいいのか?ということです。ズデーテン割譲から、翌年のチェコスロバキア併合。さらにその翌年の第二次世界大戦勃発にいたるまでは、20世紀の歴史の中でも最も重要な流れかもしれません。しかし、主人公の没時をエンディングにしてしまうとどうしても1938年で物語は終わります。これは実にもったいないです。他の登場人物の視点からでも「その後」まで書いて欲しかったと思います。それと主人公が彼であることは問題ないのですが、もう少し視点をずらして、主人公を客観視する視点が増えるともっと面白くなるかもしれないと思いました。
『おもいでは君のこころの襲鱗』
自分には絶対に書けないタイプの戯曲でした。その時点で、大いに作者さんの個性を尊敬します。リアリティに則った物語ではないのですが、ひとつひとつの場面選びに魅力があり、なぜか不思議と惹きつけられるものがあります。セリフのチョイスも多彩なパターンがあり、時に文学的で、時にリアルで力を感じました。物語の導入部分も巧みです。私も含めて、猥雑な雰囲気に郷愁や魅力を感じてしまう人間って一定数いると思います。これから何が始まるんだというわくわくがありました。
戯曲の19ページの親子の会話から、42ページのストーンウォールの反乱までの流れは力強く感動的でした。場面とセリフの選び方が絶妙なのかと思います。強いセリフを書けるのは大事な能力ですので、磨いて欲しいと思います。正直、そこがクライマックスでそれ以降のケンちゃん、コウちゃんのくだりは弱く感じてしまいました。ただそれも読む人によって印象の変わるものかもしれないので、一概に変えた方が良いとは言えません。
こういう戯曲に対して改善点を指摘する能力が私にはありません。どうかこの個性を大事にして創作を続けて欲しいと思います。
『畦道』
これも非常に個性の強い戯曲でした。ある意味、完成された世界観を構築しています。それも似たものを知らないという意味で、圧倒的に個性的です。ある種の乱暴さや、露悪的な雰囲気が肌に合わず、時に不快感を覚えながらも最後まで一気に読み進めました。個性的であるというのは本当に大事なことです。
「人間とは?」という非常に根源的な問いかけを扱った作品であるように思いますが、そこで日和ることなくあくまでも剛腕で書ききっているように読めます。それはいっそ潔ささえ感じます。演劇的な仕掛けも沢山仕込まれているので、上演されるとどういう肌触りの芝居になるのかとても気になりました。
あくまで主人公ノリオの目線でのみ語られる物語ですので、ノリオの全能感がすなわち作品の全能感になってしまい、他の目線の入る余地がないのが気になりました。しかし、それも作品の個性であるようにも思いますし、難しいところです。個人的な好みとしては、もう少し世界に対して開いた物語であって欲しいと感じました。
読者として、この六篇に触れることができたのは大きな喜びです。本当にありがとうございます。
『脱出は第二宇宙速度で』
進学塾の講師たちの設定は面白かったです。塾には親/子、正規雇用/非正規雇用、強者/弱者という対立要素が常に可視化される場所であることを明確に打ち出しています。
また、主人公の、高校受験のためのサービス業に従事する現実的な側面と、平和を願いデモに参加し理想を追求しようとする側面があぶり出され、主人公の葛藤もよくわかり、物語の運びにもスリルを感じました。
さらに物語全体が、周囲や個人の中の対立軸をもとに、月と地球との間の引力にも例えられ、その引力からの脱出をはかるにはどうするか?という問いにも繋がっていて、スケール感が変化する感覚もありました。この挑戦は評価できるものです。
しかし、どこか台詞が浮いて、類型的な言葉になっていると感じられる部分もありました。特に、対立軸からこぼれ落ちてしまったり、虐待する側の人物だったり、どこか社会的に排除されやすい人物の台詞にです。コウスケ、ハナ、トモノリという人物たちの複雑な存在感が増せば、さらに主人公の葛藤が深まったのではないでしょうか。
対立軸とテーマが際立ったぶん、人間の不可解さが薄まったように思います。不可解さへの眼差し自体は感じるのですが。例えばフルイチが父兄に言い訳抜きで即座に謝罪するところやペットの犬に対しての執着を話す部分などは、理屈を超えた人間の不可解さを表していて、この人物はすごく好きでした。
『ゴンドラ』
周りにうまく適応できない主人公の発する言葉は心地よいズレがあり、リアリティを感じました。だからこそヘルパーである女性の少しズレた感覚とも相性が良いのだろうということも想像できます。
ただし、そもそも寝たきりの父親が隣室にいるとはいえ、ヘルパーとして勤務中の、密室における利用者の家族(主人公)からの突発的な告白というものは、加害の可能性を含むということを、作者がどの程度意識しているのかは気になりました。もちろん、そういった部分でもズレているという主人公の特徴にも繋がりますが、主人公の妹(ツッコミはあれど、対策はせず)やヘルパーも含め、主人公を応援していくような形に物語が進行することへの違和感が残りました。
視点を変えて、例えば、どうしても周りとズレた言動や行動をしてしまう主人公による突発的で混乱させる行動に、傷つきながらも寛容であろうとする周囲の人々の話として読もうとも試みましたが、材料が足りなかったです。
主人公の過去とヘルパーの現在が繋がるラスト近くのエピソードは面白かったです。この事実を知った上でこの先お互いどうなったのか?という部分が描かれれば、もう少し主人公についての印象は違ったものになったかもしれません。
『チェ―ホフも鳥の名前』
一読して鮮やかだと思いました。人が来て、喋って、去る。それが繰り返される中で、時間が積もっていく読後体験でした。日露戦争も二つの大戦も挟んだ九十年間のサハリンという場所の話。
もちろんそこに住む人間には多くの出会いと別れがあるのですが、それはむしろサイドストーリーであり、むしろこの作品の主役はサハリンという土地でした。何度読んでもその感覚は変わらず、私はこの作品を授賞に相応しい作品と考えました。
この作品は日本とロシアの歴史をベースにしながら、独自のフィクションを展開しています。「もしも~であったら」という想像と実際の歴史との接続が絶妙で、チェーホフや宮沢賢治が登場して他の登場人物と会話するシーン、安倍晋三やプーチンを思わせる犬についての「遊び」の会話(舞台の年代には登場していないが、つかみのような大衆性を離れない感覚で取り入れた。と私は読みましたが、審査員の中にはそう読まない方もいたので、是非は分かれるでしょう)や朗読や字幕の仕掛けがあったりと、フィクションを自在に展開させるフットワークの軽さに余裕を感じました。
また、方言やロシア語や韓国語やニヴフ語を混ぜ込みながらの会話は、植民地や民族差別の問題をはらんではいてもどこかユーモラスで、笑うに笑えない境界線を突き進んでいこうとする作者の意志を読み取りました。
しかも、これらフットワークの軽さやユーモアが登場人物たちを置いていかない。コンセプト先行になっていないので、最終的にはサハリンという土地と人物たちの関係が印象に残りました。
『カレル・チャペック ~水の足音~』
カレル・チャペックの評伝劇として、人物たちの置かれた状況やキャラクター設定もわかりやすく、台詞自体も自然で説明的ではなく、スムーズに読みすすめることができました。
人物描写も一面的でなく、人間関係の複雑さや、現実と理想、個人と社会の間で葛藤するさまが伝わるものでした。戦争に傾く状況の中で、カレルが、妻からかつての自分の言葉を投げかけられて動揺するシーンの仕組みなども良かったです。だから、この作品は、これはこれで完成されていると感じました。
ただし、型式に既視感はあります。このジャンルと呼べるようなものがあり、その中での完成形という見え方はしました。それが悪いと言いたいのではなく、どこかに独自性のような脱線があっても?という思いです。ギルベアタという人物がその役割を担っているのかもしれませんが、それも典型的ではあり、枠内という印象です。また、人物の性格を明確にするために編集された台詞はよく練られたものでありますが、かえってこの作品を「評伝劇」に閉じ込めてしまっているような窮屈さはあります。しかし、そのように作品を鑑賞したい気持ちには全力で応えるような作品であり、そういう意味では完成形だと思いました。
『おもいでは君のこころの襲鱗』
コウちゃんが、ナイトクラブのような場所で、見世物の人魚として扱われているケンちゃんに再会することで、コウちゃんの中にあらゆる記憶がなだれ込む物語。ではあるのだけれど、そのように読むことは難しかったです。
埋立地であるその場所の漁師たちの記憶やコウちゃんが道端で耳にした会話、ストーンウォール事件なども紛れ込んでくるので、収拾がつかないからです。そんな収拾つかなさの混沌を意図的に起こそうとしている挑戦を応援したくもなるのですが、断片化された記憶の描写が表層的なように感じました。
基本的に性差別や人種差別で虐げられた者たちに寄り添おうという姿勢が貫かれているのは良いとして、関係性や台詞に繊細さが欠けているのではないでしょうか。審査中に出た意見で、自分の性別に違和感を持っている者が「女1」という役であるという戯曲上の表記の仕方が気になるというものがあり、確かにそこにも大味さが出ているように感じました。暴力的であったり差別的な振る舞いをする人物とその被害者の会話において、被害者側が何を背負っているかは理解できるのに対し、加害者側の描写が荒く、一般的な例として描かれているように感じました。
また、時々挟まるモノローグの言葉にも既視感が先行してしまい、乗れずじまいでした。もっとカオスの世界へ引きずり込んで欲しかったです。
ただ、何が何でも物語を紡ごうとする衝動はあり、怒りや悔恨のようなものは一貫していました。
『畦道』
「今、オレのことが見える人」という客席への、挑発のような問いかけからの冒頭は面白く、ここからフィクションを始める覚悟を感じ、眼前で過去の記憶が解凍されていくような主人公の語りは面白かったです。親との関係の中で、自分でも理解できない暴力衝動を主人公が意識していくくだりも、主人公と子供時代の主人公で重さと軽さを担当するようで説得力がありました。
しかし、暴力的な振る舞いを止められない主人公の子供時代の分身と、障害を持つ義理の妹の(お互い連れ子であり、人間と認められていない対応をされる)密な連帯にいまいち乗り切れないのは、子供時代の主人公に対して、現在の主人公が距離を持っていないからで、冒頭の問いかけがあまり活きて来るようではないし、「なぜ主人公は今ここでこの話を始めた?」という疑問が消えないからです。「今、ここ」の主人公と「あるとき」の主人公の二人に分かれていることの意味を見失いました。
また後半の、親ガチャに外れたから親を選び直すというアイディア自体は面白かったのですが、ファンタジーとしてもリアリズムとしても曖昧に分散して描ききれていないように思いました。
それと気になったのは、子供たちが行おうとする、明らかに非人道的な行為について、大人である主人公がどのような認識を持っていたかが描かれていない点も気になりました。モラルそのものを求めているのではなく、この作品世界でモラルはどのような位置にあるのか?を知りたかったです。例えば、殺人は反モラル的であるが、ある条件下では情状酌量の余地があるというようなことです。
主人公の分身が義妹のミドリを道具として扱った件は決して小さな過失とは言えなく、そのことを主人公はどう記憶しているのかが気になりました。
1977年生まれ。大阪府出身。劇団「ニットキャップシアター」代表。劇作家。演出家。京都を創作の拠点に大阪、東京、福岡、名古屋などの各都市で公演を続けている。『愛のテール』でOMS戯曲賞大賞。『ヒラカタ・ノート』でOMS戯曲賞特別賞及び新・kyoto演劇大賞。一般社団法人毛帽子事務所役員。一般財団法人地域創造派遣アーティスト。
第9回北海道戯曲賞贈呈式
実施日 令和5年4月20日(木)
場 所 北海道文化財団内「アートスペース」
受賞者 「大 賞」 ごまのはえ
ごまのはえ
募集期間 | 令和3年7月1日~9月1日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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応募数 | 137作品(新規78作品) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年齢別 |
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都道府県別 |
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江本 純子 | (毛皮族・財団、江本純子) |
桑原 裕子 | (KAKUTA) |
斎藤 歩 | (札幌座) |
瀬戸山 美咲 | (ミナモザ) |
古川 健 | (劇団チョコレートケーキ) |
大賞 | 「南千住回遊野外劇『リアの跡地』」 | 葭本 未織 | (兵庫県) |
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優秀賞 | 該当作品無し | ||
最終選考作品 | 「アンダーカレント」 | 柳生 二千翔 | (東京都) |
「犬が死んだ、僕は父親になることにした」 | 私道 かぴ | (大阪府) | |
「コルチカム」 | 野村 有志 | (大阪府) | |
「残火(ザンカ)」 | 斜田 章大 | (愛知県) | |
「藤田嗣治~白い暗闇~」 | 鈴木 アツト | (東京都) |
審査会前にA、B、Cの三段階で事前評価をつける。わたしは南千住回遊野外劇『リアの跡地』をA、『藤田嗣治~白い暗闇~』をB、『アンダーカレント』『残火(ザンカ)』『コルチカム』『犬が死んだ、僕は父親になることにした』をCとした。
『犬が死んだ、僕は父親になることにした』
C評価だったが、審査会では優秀賞として推した。今も逡巡している。
まず、全部説明長文スタイルのタイトルに、広告的魂胆を感じてしまう。でも長いタイトルを広告的だと捉えるのは私の感覚で。作者にとって必然として名付けたのであれば、それは超現代的な無防備さ、とも感じる。とんちんかんな寄り添いだと承知しているが、わたしはこの戯曲を『犬僕』と呼んでみる。
『犬僕』はとにかくモノローグが異常に長い。モノローグの部分を全てト書きにしたって演劇は描けるわけだが、それを選ばずに、執拗にナラティブし続けてくる。この意固地さも。これをどう受け取るか。戯曲として「へた」だと一刀両断もできるし、まるでプログレミュージックみたいで素敵よね、とも言えてしまう。長すぎるモノローグを「異常」と評するのも、今すぐ火にくべたっていいわたしの演劇観に基づいた感想だ。受け入れ難さ=不寛容さを突き、問われているようだ。「この戯曲を受け入れられますか?」
「異常」に遭遇したとき、「異常」から逃避するよりも、いっそう見つめたくなる好奇心と使命感が発動してしまうのも「わたし」だ、『犬僕』ってば。
内省し続ける主人公「僕」の、「僕自身」への細やかさに比べると、《子どもはオプション》に代表される言葉選びや、妻にとっての犬を《精神のよりどころ》と平坦な解釈を持ち込む姿勢など、他者に対する温度のない感情に驚く。これを、作者自身の他者に対する視座と読むと包摂不可能に陥るが、あくまでも「僕」の内省しすぎる感情、として注目する。内省しすぎる「僕」の視点だからと、数々の記号的描写・表現の稚拙さを納得する。
「僕」は本物の自然や本気の野生に触れたことがない人間なのだろうか。だとすれば、無菌感覚の身体に、自然的本能として存在する「性欲」への居心地の悪さや、新しい命を作ることにシステム的な虚しさを覚えるかもしれない。だのに、同じ野生動物「犬」は、都市の人間の暮らしに去勢までして従順に対応できている。その姿に「僕」という超・都市感覚現代人は、嫉妬と同情を抱かずにいられない・・と読むと、実に切実すぎる事態だ。現代に語られるべくして然りな“人間の状態”が描かれているのは確かなのだ。これを、現代人の変わりゆく性意識を顕在化した戯曲だとか、単純化させてしまっていいのか。この戯曲のスタイルを否定することは、「僕」自身も無自覚かもしれない未知のセクシャリティに無理解を示すことに重なる気がして憚られる。
もっと深層にたどり着くために、「この戯曲を読んだ、わたしは『犬僕』と呼ぶことにした」のだ。《父親になることにした》というタイトルも、オートマ感覚なドライさと受け取っていたが、「僕」が、僕自身の受け入れがたい深層と、「僕」を受け入れてくれないかもしれない人間社会、両方に寄り添おうとする精一杯の態度なのかもと気づく。
『藤田嗣治~白い暗闇~』
それはアートなのか、ビジネスなのか?それはアートなのか、ペテンなのか?芸術家は、世間と(観客と)、必死に攻防する。それは現時代も変わらない「アートと大衆関係の滑稽さ」だと響く。この攻防の果てにあるのは、芸術が政治利用されてしまう危険。実在した芸術家を軸に描かれているが、芸術家周辺に限った話ではなく、世間と、世間の中にいる自己をどう折り合いつけていくかという問い。この問題提起にはとても共鳴する。「自分」が「自分」でいられる世の中なんて、ありえるのか。コロナ禍で。目に見える戦争があって。それも現在進行形の歴史の一端だ。持ち堪えるために、「自分」が「自分」でいられるような世の中を、思考していきたい。
B評価だったが、優秀賞としても推しきれなかったのは、ときめきが薄かったこと。これはただの好みになるけど、演劇のユーモアがない。タイトルの~~(ニョロニョロ)もオシャレじゃない・・ってそれは大した問題ではないけど。
わたしは、藤田という人物に託された芸術家の姿を「醜」として“読んだ”のだが、芸術家を「美」として“描いて”いるのでは?との、桑原審査員の意見を聞き及び、この作品に対して改めて首をかしげることになった。すると芸術家の「美」を信じた物語になるのだろうか。であれば、芸術家の「美」のために振り回される周囲の人間、妻、恋人、画学生や、芸術家の「美」を利用する新聞記者など、藤田以外の人間たちの脆さや世間との努力を刻々と描いた方が、現代性がありそうだ。
『コルチカム』
大衆に消費されもしない芸人の苦悩。『藤田嗣治』の藤田は大衆を圧倒させようという自信に満ちていたが、こちらの主人公は、大衆を振り向かせたいのに叶わないうだうだに満ちている。
幸と不幸、喜劇と悲劇、の表裏というより、「量産」と「特別」の二項でいったりきたり、な印象。量産されたような人生を、「特別」なものにするために「自殺」という選択肢があるのだとしたら。「特別になる」とは「伝説になる」や「名を残す/名を馳せる」がゴールになってしまう。そういう権威主義から逃れられない自己の苦しみを世間への憎しみを込めてとことん描けそうだが、中途半端な自虐が続く。中途半端なのは、作者の味わい・魅力にも思えるのだけど。
特別になるための「自殺」ではなく、資本主義的価値観の囚われからの脱却としての「fly」、そう読めるように描かれていればよかったのかなぁ・・・そう、この戯曲、おもしろそうなことが書かれているようでなんだかもの足りないのは、世間への「願望」しかないからでは?つまり戯曲の根底にあるのが全部愚痴。世界が広がっていく面白さがないの。いっそ「飛ばず」に、ひたすら愚痴に特化した形を見てみたい。もっとうだうだ、もっとみっともなく。
『アンダーカレント』
《能〈隅田川〉を原案に、現代の母と子供、そのあり方を考える戯曲》と作者が記した台本内の概要にあった。民衆が“見たいもの”を描く大衆芸能として存在していたのが能、だとして。悲劇ならばより民衆が涙を流せるように筋立てていく「全米が泣いた!」的なもろエンタメの世界にも通ずる。だから能を使って社会の《諸問題》を描くって、やな予感がした。
《「いじめられっこのワタルくん」》という一括り表現の杜撰さ。ワタルくんが「いじめられっこ」であるのも、ラストに《「僕のこと好き?」》と言わせたいがための、ただの設定。そのセリフに続くト書きが《やがて涙を流す小春》なので、このセリフ自体も、小春に涙を流させたいための設え。
この戯曲で取り上げられた社会の《諸問題》は、ドラマを盛り上げるための共感装置、あるいは設定としてでしか存在しておらず、問いを含んだ作者からの提示もなく、あるのは「涙を流す」ための物語。かくして現代の能エンタメの世界で消費されゆく《諸問題》たち。かつての能における《諸問題》からの悲劇(お涙あり)とは、民衆にとって自浄できる意味があったのかもしれない。共感して涙流すことで得られる明日への活力。この戯曲を、現在「いじめ」や「母親としての自分の問題」に苦しむ当事者の元に届けたとき、果たして「共感」は自浄作用を生むだろうか?現実の方がもっと過酷に突き刺さったままだろう。《「小春さん、航くん亡くなってから、ちゃんと泣きました?」》虚像として流通しているテンプレートみたいなセリフを登場人物に言わせている場合じゃ、ない。
『残火(ザンカ)』
「残火」、この意味をググってしまった。“わずかに残る気力のたとえ”で、あってる?? ト書き《空から時代が降って来る》から解釈するに、震災をはじめとする抗うことのできない「大きな」事象に、「負けそう」になっても(あるいは「負けた」ような、悲惨を伴う状況になっても)、わずかに残る気力(残火)から「はじまる」「希望」を描こうとした物語(ドラマ)、と受け取る。「写真」や「カメラ」が、登場人物たちの暮らしの移ろいを描く際の核として存在しているのは好きな点。だけども。
「写真」にしろ「火」にしろ、象徴的な意味合いで登場する時もあれば、人物の暮らしに付随する具象として登場する時がある。混在させるならば、具象として使用する際に、象徴使用している際の意図とズレないように、慎重な検証が必要だと思うのだが、それがなされているのか、疑問に思う箇所がいくつかあった。検証が不十分だと、象徴に託した意図の一貫性が揺さぶられ、象徴表現が全て「雰囲気」で消化されてしまう。
あるいはラストシーン。希望の象徴であろう「残火」を、かつての3人が花火遊びをするシーンの中に登場させていたが、これだと過ぎし日の時間の儚さの方が強調されてしまい「希望」としての象徴が薄れてしまわないだろうか。恋人を失った道久の切ない恋愛物語を描きたかったのか、とひっくり返った。
おもしろい物語を書こうって作者の気概が旺盛すぎるのか、おもしろくしようと集められた要素の数々が渋滞。空回り。ツッコミどころ・・と貼った付箋多数。書ききれない、ここに。
南千住回遊野外劇『リアの跡地』
審査会では、わたしを含む「リア王」をあまり把握していない三者から比較的好意的な評価、「リア王」を存分に知る斎藤審査員、瀬戸山審査員からは比較的苦い反応。これを無視することができましょうか。
まず、審査員5名のうち3名が「リア王」未読な北海道戯曲賞・・大丈夫?異論はあるだろうが、わたしは、大丈夫と言っておきたい。全方位に誤解なく伝わる自信もないが、わたしのような人間が審査員をしている限り、北海道戯曲賞に知的教養的な権威っぽさが生まれることはないでしょう。なんなら、いわゆる演劇「賞」に宿る、広報的にも名誉的にも自慢可能な勳章めいた価値をもたらすこともない方が・・・その方が「賞」として素敵じゃない?とわたし個人は思う。選評なんて《「火にくべてしまえ」(C)先代・前田司郎審査員》の北海道戯曲賞だよ。じゃあこの戯曲賞ってなんなの?と問われてしまうかもしれない。一旦『リア王の跡地』に話を戻します。
この社会に「リア王」を読んだことのある人間と、読んだことのない人間、どちらが多いかと言えば、恐らく後者かと。わたし自身は「リア王」を知らなくても演劇を楽しめる観客が増えることを願っているので「リア王」を知らないわたし自身も楽しめたこの戯曲は、選民的にならない演劇としてもいっそう推したくなってしまう。しかし、一方では「リア王」を愛読する者にとって許しがたい点があるのだとしたら、今回のケースにおいて、「リア王」読者たちからの思いこそが「小さな声」であり、演劇としての公平性を考えるならば、この声を無視してはいけない、と思う。
この戯曲に「リア王」を持ち込む必然性はあったのか?と議論があった。未読のわたしとしては、この作品で「リア王」の存在が意味するところを、家父長制からの脱却を描くための物語構造的な部分だけではなく、「リア王」自体がもつ演劇権威性・「リア王」に孕む象徴的な演劇像、この二つからの脱却も重ねていると受け取っていた。よって、原作の筋や人物の重ね方に違和感があろうとも、それは作者にとっては重要ではないのではないかと。しかし、それだけでは「リア王」の必然性には至らない。古くさい権威や演劇スタイルの象徴として持ち出すならば、別のシェイクスピア演劇でもよさそうだ。(古くさい権威=演劇って1年に何作のシェイクスピアを上演しているんだろう。なんでそんなにシェイクスピアにすがるんだろう・・というわたしの気持ちがそう表しています。すがるというより、単に企画者の思考停止ゆえかもしれない・・それはさておき)『リアの跡地』も、思考停止的にシェイクスピアを持ち込んだ可能性がゼロとは言えない。さておき、さておき。
「人間の種という種を破壊せよ」この、「リア王」から引用セリフで到達する地点が、この物語にとって「リア王」を翻案する必然がある、とわたしは考えた。この物語には「野球」の構造も持ち込まれている。野球は《人と人との関係性から生まれる…スポーツ》と書かれているが、この戯曲は「観客」の存在を隠さないところから、この戯曲にとっての演劇もまた「関係性の芸術」だと言ってみよう。野球=演劇(=その象徴としての「リア王」)とつなげてみる。また、《人と人とが対峙するその全てに秩序がある》のが《素晴らしいところ》だというセリフから、野球=家(=その象徴としての「リア王」)ともつながる。つまり、野球=演劇=家=「リア王」は、人と人が対峙して秩序が生まれるという点でも結ばれる。その秩序は美しいはず、との希望を持っているからこそ、これまで「男」優先で作られてきた美しくない秩序の、破壊を目論むのがこの戯曲で行われていることだと、わたしは読んだ。
ラストシーンで、三女・洪がリアの手に握られていた「野球」のボールを奪って投げる姿は、そのボールをキャッチする新たな「種」に対して性別や生き方の選択の自由を与える予感として、凄まじく爽快だった。それは美しい秩序のための自由だ。新たな「種」が新しい秩序を作るためにも、それまでにある「種」は破壊しておかないといけない。その号令を「リア」に託したのではないか。
審査会後日、やっと読んだよ『リア王』を!!ちくま文庫の松岡和子さんの訳。なんでしょうこれ、めちゃくちゃ面白い・・・!!シェイクスピアさん、これ、世界中の劇場で、毎年上演しちゃいましょう。
さて。原作を知った上で、改めて『リアの跡地』を読み直すと・・一挙に読み難くなった。斎藤審査員と瀬戸山審査員の声の意味もようやく理解する。どうしても、それぞれの人物の怪物性や諸々の魅力をこの戯曲ではどうやって反映しているかと、読み込もうとしてしまう。でも、ほぼ反映されていないので、深読み徒労を起こしてしまう。エドマンドやエドガーもっと生かして!と言いたくなるし、道化とケントにいたっては完全に名前借り状態なので、他の名前にしてあげて!となる。
結論。『リアの跡地』での、三姉妹とリア以外の人物たちは、「リア王」構造から離れた方が、「リア王」読者もノッキングを起こさずに楽しめそう。でも・・母親不在の「リア王」だったけど、『リアの跡地』では、リアと洪が溶け合って母なる姿が登場していたり、そういう大胆さを、わたしは魅力に思う。
北海道戯曲賞の大賞受賞作は賞金50万円に加えて、北海道で上演できるという、ふとっぱらな特典がある。東京/南千住から生まれたこの戯曲を北海道で上演する、このわざわざさ。どの地域の文化財団さんも注目してほしいくらい。この実現の中でどれだけの、演劇と地域と人々の対話/親和を獲得できるのかとわくわくする。それは「賞」がもたらす広報的な価値や名誉バッジ効果なんかより、よっぽど得難いものかと。北海道戯曲賞が存在する豊かさじゃないかと。「賞の種という種を破壊せよ!」
今年、私の中では「ウワー面白かったーッ」とすがすがしいため息をついてしまった作品がひとつありました。他5作品については、昨年以上にバラエティに富み、素晴らしいところも疑問に思うところもそれぞれ同じくらいありました。まずは大賞に推したい作品と出逢えたことに安堵し、優秀賞に推す上ではいずれも甲乙つけがたく、他の審査員の皆さんのご意見を伺いたいと思って審査に臨みました。
『犬が死んだ、僕は父親になることにした』
偶然にも今年はモノローグから始まる候補作が多く、中でもこの戯曲はほぼ全編がひとり語りの体裁で書かれていました。ですから「これが戯曲である必要性は何だろう?」という疑問は初めからあったものの、いずれその答えが出ることを期待し、まずは丁寧な筆致に惹かれて読み進めました。ですが、いけどもいけども、小説にした方が面白いんじゃないか、という思いは深まっていきました。犬を人間が演じるのか、本物の犬でやるのか、あえて無機物でやるのかは捉え方によって遊び甲斐がありそうです。ただ、いくつかシーンにおいては脳内に情景が豊かに広がっていくほど、舞台という制約のある空間、「生もの」の人間が演じることが弱点となってしまいそうな気もしました。例えば、
「僕は、彼女の背中に大きな孤独が見えるような気がした」
といった描写をそのまま独白で言ってしまったら、俳優は何をすれば良いのだろう?たとえそのとおりに見事な演技をしたところで、それは雄弁なモノローグの補足に過ぎず、俳優たちはカラオケで見る背景映像のようなものに成り果ててしまうのでは、と、すこし心配になりました。小説的なスタイルを避けるべしということではなく、内在批判を延々とくり返す男のある意味でナルシスティックな姿を効果的に見せるためにも、大部分をモノローグだけで埋めてしまわず、ト書きに委ね、会話に隠し、生身で行われることにもっと表現の領域を明け渡してもいいのではないかと思いました。
『アンダーカレント』
子を亡くした夫婦が激しい虚無感や後悔とどう向き合うのか、またはやり過ごすのか。妻と夫、それぞれの違いは興味深く、好感を持って読みました。ひとつところに留まらず、ゆらゆらと移り変わる水流のようなシーン展開が好きです。ゴミさらいで人さらいの泥棒さん=ボーさんも、その相方でありボーさんに救われた(掬われた)桜も、温かさと怖さが共存した不思議な味わい。梨を巡っての夫婦のやりとりや、三井の「すべては生姜が解決してくれます」という安直さと健やかさ(ショウガもフルーツかごに入ってれば良いのになんて思ったり)など、いかにも劇的な瞬間ではない“隙間”にも光る台詞がありました。
ですが、めまぐるしく場面が変わっていくことをどう舞台で見せるのか?という点は疑問が多く残りました。特に気になるのは時間の概念です。「テントを建てる」「船を作る」「梨をむく」といった物理的に時間がかかると想定されることを、たった数行のト書きで済ませていますが、実際にはどのくらいの時間をかけるつもりなのか?ちゃんと見せようと思えば膨大に時間はかかるし、仮にすべて抽象で処理するとしたら観客に伝わらないのでは?
夫婦が川向こうの町に行く終盤は、夢か真か、三途の川から彼岸へと渡る精神世界のようで面白いです。が、これもまた無責任なト書きによってあまりに急速に抽象度が増していくため、やや置いてきぼりを食らってしまったような気がしました。
舞台上に流れる時間をどう描くかも、重要な戯曲の役割ではないでしょうか。
『藤田嗣治~白い暗闇~』
評伝劇というジャンルに明るくないので、「こういうものなのだろうか……?」と悩みながら読んだのですが、私には、藤田嗣治の人生の軌跡を体験したというよりも、表層を掬い取り羅列した長いプロフィールを読んだ、という感覚に留まってしまいました。
ベビーバウダーを絵具に混ぜたという“乳白色の裸婦”、黒の輪郭線、猫、戦争画……藤田の絵画史には多くの魅力的な逸話があり、どれも捨てがたい気持ちはわかりますし、膨大な資料を読まれたのだと思います。ですが、それらをたった一本の芝居で見せようとしたとき、限りある時間の中でどれも少しずつ拾っていくと、どうしても資料解説で済ませてしまう箇所が多くなります。それで歴史を知ることは出来ますが、人間が血肉をもって浮かび上がってくるかは疑問です。
実在の人物を描く難しさに「どこまで作者の想像で創作して良いのか」ということがあります。今作では他者に藤田を語らせ、藤田本人が受け身であることが多かったので、作者がどこか“藤田嗣治を作る”ことに遠慮しているような印象を抱きました。作者が想像力を駆使して独自の視点を食い込ませた場所にこそ、評伝劇の面白さがあるのではないでしょうか。
戦争画を描くに至る葛藤、影と対峙する最後のパートには、描き手の熱量を感じました。冒頭とラストを繋ぐ父子の関係も興味深く、もしかしたらこの戦争画パートにもっと尺を割き、徹底的に掘り下げても面白かったんじゃないかと思います。
『コルチカム』
ひねりのあるひとり芝居で面白かったです。わざわざひとりで何役も演じてみせるのに、なぜこうも似た男ばかり出すのだろう?という違和感を観客に抱かせ、誰が誰やらわからなくなってくる中盤で、この男は最初からひとりであり、他者から見分けのつかない量産型の芸人だった、と気づかせる流れが巧みだと思いました(余談ですがドラえもんの名作短編「ドラえもんだらけ」を思い出しました)。落ちてきた男を受けとめる漫画的なアクションから「1コマ目にもどる」と書いてありそうなラストシーンの永久ループに繋がっていくのもアイロニックなプチSF感あり、愉しみました。
見えない相手側の台詞を「え?******って?」というスタイルで、いちいち反復する対話の見せ方は工夫が足りず、誤字・脱字が多すぎる点でも、全体に雑な印象は受けます。バッと浮かんだアイディアを勢いに任せてグイグイ書き進んでいったのかなと想像したのですが、一気に描ききったあとでもいいので今一度見直し、それらの手法をもっと丁寧に詰めて行けば、更に面白くなると思います。
『残火(ザンカ)』
斜田さんの戯曲を、私は他の戯曲賞含め何作も読ませて頂いていていて、精力的に新作を書き続け、常に最終候補に挙がる実力の持ち主であることに、素直に感心しています。毎回そそる人間関係があり、アイディアも豊富で、ストーリーに引き込む筆力があります。ただ毎度欠かさず作者が描く「死」は、スナック感覚というか、べろべろばあ!とびっくりさせるためのアイテムとして消費されているように思えてならず、いつも受け止め方に当惑します。これはもはや伊藤潤二の漫画のような理不尽絶望系ホラーとして楽しめば良いのかしら……と見方を窺いつつ読み始めると、今作は現実の震災を背景に起きつつも「生」のほうに視座を置いた物語になっていると思い、おっ、と期待を抱いて読んでいました。アナログからデジタルへ、またアナログ回帰へと移り変わるカメラ屋をひとつの歴史に組み込む見せ方も良いですし、「死ね」が口癖の火花にも、読み進めるほどに愛着が湧いていきました。
ところが……、
最後の最後に、ぶん殴られた気分です。未だ多くの人びとに深く傷跡を残している現実の大天災を扱うことは、ただでさえセンシティブなこと。なのに散々トラウマを刺激した挙げ句の、あのラスト。マルチバースなフィクションを描くこと自体に文句を言うつもりはありません。が、現実と並列し非現実の天災をでっち上げるのであれば、安易なセンチメンタルのためではなく、それ相応の覚悟と意味が欲しいです。今回は最も醜悪なびっくり箱をむりやり開けさせられた不快感、冒涜的にさえ感じました。
今度はぜひ、誰も死なない戯曲を読んでみたいです。そこに頼らずとも充分面白い本が書ける作家だと思いますし、死に結末を託さないことで、火花と道久、火花と祖母のような、いきいきと生み出された魅力的な関係性を、より深く描けるような気がするからです。
南千住回遊野外劇『リアの跡地』
冒頭の会場案内から二階、三階、途中の室内移動に至るまで、派遣社員に扮した観客のひとりとして、終始ワクワクしながら読みました。おそらくは舞台となる会場が先にあり、そこからストーリーを紡いだのでしょうが、南千住という地域性や家屋の特徴を豊富に生かした見せ方が素晴らしく、実在する家がまるで今作のためにしつらえた場所のように思えました。誰に規定され私は完全な私に成るのか、どうすれば私は私であることを守り抜けるのか。父性の愛と呪縛に支配された娘たちが「姓」と「性」と「生」のアイデンティティを巡って繰り広げる彷徨と闘いは、ドタバタ喜劇の体裁を成しつつも切実な想いとして貫かれていたように思いました。一軒の家をフル活用した、劇場では出来ない体験型の演劇であり、数々趣向を凝らした遊び心に負けない物語の力に唸りました。
私はこの『リアの跡地』を大賞に推そうと決めて審査に臨みました。ですが、審査会で『リア王』を下敷きにしていることに関し、モチーフの扱いが煩雑ではないかと物議を醸しました。あらすじをなぞる程度にしか『リア王』を知らないため細かく拾わなかった私はオリジナルのごとく愉しみ、本家をよく知る人からすれば違和感だらけ。この点で、大きく評価が違ってきたのです。
『リア王』を軸に据える必要性は。新解釈なりアンチテーゼなり、元ネタを超える“何か”があるか……長い議論の末、やはりモチーフの扱い方には見過ごせない部分が多いけれど、勢いや面白さには抜きん出た力を感じるというところで、大賞に決まりました。
おめでとうございます。
地域と密接に繋がった作品、いうなれば“南千住ご当地演劇”とも呼べる今作が、大賞となって北海道で上演するとき、一体どんな変貌を遂げるのでしょう。
是非これまでの住処から遠く離れた地で、大いに遊びたおし、新たな「家」を創り上げてください。
今回、6作品を読ませていただいた。その中で「藤田嗣治~白い暗闇~」「犬が死んだ、僕は父親になることにした」2作品について評価に悩んだ。審査員の皆さんの評価を聞いて私なりに考え、議論しようと審査会に臨んだ。
結果的に大賞となった南千住回遊野外劇『リアの跡地』については、当初から私は選外と考えていた。シェイクスピアの「リア王」を解体するならば、「リア王」を読まなければならないと思う。そして「リア王」を知っている多くの人、それぞれの中にある「リア王」をも解体できる説得力が必要だと思う。ところがこの作品、リア王を表面的に触っただけに見えて、何故リア王の構造を借りなければならないのかが腑に落ちなかったのだ。審査員の皆さんとの議論の中で「リア王を知らないから、気にならない」というご意見もあったが、私は知ってしまっていたため、どうにもそこを乗り越えてこの作品を評価することができなかったのだ。ケント伯もグロスターも、エドガーもエドマンドも、私の知っているリア王とは設定や背景が異なり過ぎていて、読むたびに引っかかってしまった。私はそれほど「リア王」を面白い作品だとは思っていないのだが、「違うんじゃないか?」という違和感が常に付きまとい、作品に馴染めなかったのだ。「成程、そういう読み方もあったのか?」と感心できれば面白がれたのかもしれないが、そうはなれなかった。なぜ、「リア王」でなければならなかったのか?そこが弱点であり、卑怯にも感じたのだ。 実在する家屋を使った設定や、周囲の商店街を巻き込んだ遊び心には大いに共感できた。台詞のスピード感や「そんなのどうでもいいじゃん」という勢い、エネルギーも大好きで、この報われないエネルギーや労力を演劇に注ぐ若い作家の登場は本当にうれしい。結果、大賞という結論に異論はないが「赦せん」というコメントを残したい。
『藤田嗣治~白い暗闇~』は、いわゆる「評伝劇」か。実在した人物の知られざる側面に光を当てて、実によく調べられており、上手く書けていると感じたものの、抜群の評価に値するとまでは感じられなかった。 冒頭、主人公の父親が、渡欧する息子に日本刀を手渡しながら「お前には日本人という枠がある」と告げた場面がとても良く、絵画のフレームである額縁と、人物のフレームを対比させた視点に期待が高まり読み始めた。同席した審査員の古川さんも仰っていたが、このタイプの戯曲が北海道戯曲賞にノミネートされたことは嬉しかった。そして一定水準のレベルではあったと思う。だが、納得しやすい収まりどころにきちんと収まっている点がつまらなかった。読んでいて、途中から予想した範囲内の展開に終始するのだ。 村中という「嗣治」の影のような存在が、あまり効いていないのだろうか。 こうしたタイプの戯曲は、どうしても説明的な台詞や場面が多くなる。私はそれが苦手で、いつもどうにかならないのだろうか?と感じてしまう。戦後、1960年代、70年代、80年代、日本語で書かれた戯曲は、様々な劇作家が渾身の挑戦を続け、時代時代に結果を出してきた。今、2020年代。もっと技術的に日本語の戯曲も先へ進んでもよさそうに思うのだが。
『犬が死んだ、僕は父親になることにした』について、悩んだ。どうしてこんなにも乾いているのだろうか?それともあえて乾いて書くことで何か作家自身の考察を整えようとしているのだろうか?人間の「性」というものを、動物的な「性」と置き換えて描き、俳優やスタッフ、そして観客という他者を巻き込んだ演劇という行為で、何かを検証しようとしているのだろうか?とか、この作家の書こうとする根拠のようなものにアクセスできず、とはいえ無視もできず、評価に苦しんだ。齢60近いジジイには理解できないのだろうか?という弱音に近い感覚もあったが、何か、気になり、悩み、何度も読んでみたが駄目だった。 「僕」と言う人が、独白で全部喋っちゃう点がやはりダメだった。どう感じたかなどを。自分で喋らないで、他者との会話や居ずまいで描けなかったのか?物凄く繊細な手触りのようなものを描こうとしていると感じて、何とか読み解こうとしたのだが…。私よりもずっと若い審査員の皆さんの評価がとても楽しみな作品だったのだが、優秀賞には至らなかったのだと思う。
『アンダーカレント』は、登場する人物や場面の設定が都合良過ぎると感じた。息子を失った母親が復職し、同僚と次々に訪れる場面「レストランでのランチ」や「ヨガ」などの選び方が類型的だったり、橋が壊れていつまでも直されていないことへの違和感。川向うからゴミが流れて来るという設定も「川下に流れるのでは?」と感じてしまったり、川向うの街の様子にリアリティが感じられなかったり、「ポーさん」や「桜」という人たちの存在や行動にも説得力が感じられなかった。母親が職場の同僚に「ちゃんと泣きましたか?」と問い詰められる場面も、急にテーマが直接的に引き出されたような強引さを感じた。書き始める前に取材をしたようだが、予断はなかったか?書いてみて初めて発見できたことはあったのだろうか?
『残火(ザンカ)』は、二つの震災と世相を並べて平成という30年を描いたのだろうか。それが東海大震災という架空の震災に帰結するという点がつまらない。また、人物設定がいずれも単純過ぎないだろうか。都合がよすぎる。火花さんが架空の震災で死んでしまうことに帰結してしまうのが何とも残念だ。
『コルチカム』は、習作なのだろうか?面白くなかった。一人芝居にしたことで、芸人と呼ばれる人の内側にある多面性を現そうとしているのだろうか。だとしたら、構造が単純過ぎる。「コルチカム」というタイトルが持つ意味に作品が帰結できていないと感じた。
今回の審査会は有意義な時間でした。審査員のみなさんの視点がそれぞれ違っていたので、話していて気づかされることが多く、作品の理解が深まったと思います。とはいえ、5人の視点と異なる視点は無限に存在していて、それを見落としている恐れはあります。審査というものの難しさを感じるとともに、ひとつひとつの作品の可能性をできる限り発見したいという姿勢で審査しました。
『アンダーカレント』は、観世元雅作の能『隅田川』を原案にした作品です。作者の柳生さんは原典のみならずそこから派生した作品や伝説などもリサーチされたということで、さまざまな部分から『隅田川』の要素を感じました。消えた子ども、子どもを失ってしまった親、その悲しみを共有する他者、此岸と彼岸とそれを渡す者。主人公だけでなく、すべての登場人物にそのエッセンスが散りばめられているところが興味深かったです。中でも、桜とボーさんという登場人物が「男についていった(当時)未成年の少女」と「虐待する親のもとから少女を連れ出した男」というかなり危ういバランスのもと存在しており、緊張感を持って読みました。ただ、最終的に彼らは背景として終わったしまった感がありました。現代の話として『隅田川』を翻案するとしたら、彼らのような人たちの話にもう少し踏み込んだものが読みたいと思いました。また、作品全体の構造を保つために、主人公の同僚が作者の意図で動いていると感じられた部分があったのが、もったいないと感じました。ひとりひとりの人物をさらに掘り下げていったら、さらに遠くまでいけるポテンシャルのある作品だと思います。
『犬が死んだ、僕は父親になることにした』はタイトルから内容が見えるので、ある程度予測を持って読みました。しかし、細かな心理描写が面白く、タイトルのハードルを易々と超えていく秀作でした。犬の行き場のない性欲の描写など、動物を飼うことのグロテスクな部分が見えてきたのが興味深かったですし、さらにその犬の性欲を自分の性欲と重ねて捉えてしまう主人公の姿も滑稽でした。犬の死と子どもの誕生を通して、高度に文明化された人間の生と性は相当に不自然なのだということが感じられました。終盤の妻からペットへの手紙からラストに向かっては、ある種「いい話」のかたちにはまるような展開ですが、作者がわざと気持ち悪く描いているのか、本当にいい話として描いているのがつかめないという意見が審査会でありました。私は最初に読んだ時、気持ち悪いとは思わず、いい話だと感じてしまいました。それは私自身の生と性が人工的な不自然さの中にあるからだと思います。前書きに「『犬』は必ずしも犬の姿を模しているとは限らない」とありますが、ここでどう表現すべきか提示すれば、作者の描きたいものが明確に伝わると思いました。
『コルチカム』は、ひとりの俳優が複数の人物を演じ、そして実はすべての人物が実は同一人物であった可能性が示されるという構造が面白いと思いました。ただ、「幸せと不幸は表裏一体である」「コルチカムには2つ花言葉がある」など前半で提示されたテーマやモチーフが、あまりうまくストーリーにはまっていなかったと思います。いっそ、そのような修辞的な表現は使わず、ひたすら登場人物(たち)のディテールを描いて笑える方向に持っていったほうが、作者の書きたいことに近づけるように思いました。
『残火(ザンカ)』は登場人物たちの関係性の描き方がわかりやすく、スムーズに読めました。途中で挟まれる平成の出来事の羅列は文字列以上の効果がないと感じましたが、カメラをめぐる時代の変化を描くのは面白いと思いました。ただ、この作品は作者の現実とフィクションへの向き合い方の部分で疑問符がつきました。阪神大震災、東日本大震災を通して若者たちの成長を描く上で、主人公の男性の恋愛相手である女性が背負わされた身体の欠損は、危うさは感じつつ描写の必要性はあるかと思い読んでいました。しかし、架空の地震が起き、彼女が死んだとき、作者が地震も登場人物も道具として捉えているのかもしれないと感じてしまいました。死の理不尽さを描きたかったのかもしれませんが、主人公ではなく主人公のパートナーだけに不幸を背負わせていくことの意味が掴めませんでした。女性を客体として消費しているようにも見えました。ラストも主人公の感傷だけに寄り添っていて、つらいものがありました。
『藤田嗣治~白い暗闇~』は登場人物も出来事もうまく情報が整理されていて、藤田嗣治の人生がどのようなものであったか、彼が戦争とどう向き合ったのかよく理解できました。しかし、戦争と大衆という核心部分に迫るのが遅く、それまで出来事を眺めている時間が長いと感じました。また、最後の5分くらいで村中という人物が「もうひとりの自分」と明かされますが、これも驚きよりとまどいのほうが大きく、混乱しているうちに終幕してしまう印象がありました。演劇はストーリー展開で持っていくより、人物の葛藤を描くのに向いた表現形態だと思います。冒頭からもうひとりの自分として村中を提示した上で主人公とのやりとりを描いたら、もっと藤田嗣治という人間に近づけたのではないかと思いました。
南千住回遊野外劇『リアの跡地』は駅のそばで集合して「リア」に家に連れていかれるという導入が大変わくわくしました。しかし、家に到着してすべての人物が登場するあたりから戸惑い始めました。リアやコーディリアにあたる人物は原作との関連性を感じられたのですが、グロスターやエドマンド、エドガーなどにあたる人物は原作と微妙な齟齬があって混乱しました。混乱の原因としては「黒須田」「佐藤エドマンド」「佐藤江戸川」など元の人物を想像しやすい名前もあると思います。名前のもじりがもう少し直接的でなかったら、その要素もある別の人物としてすっきり読めたと思いました。作品全体としては、コーディリアが死んでその後リアが死ぬという原作を、リアが死んでコーディリアが生き残ると書き換えたのが鮮烈で、『リア王』とその世界を支える家父長制的な価値観への批判として非常に面白いと思いました。
今回から審査員を務めます古川健です。どうぞよろしくお願いします。私自身、作劇の教育を受けたわけでもなく、師匠もおらず、完全に自己流でやっております。また戯曲賞の審査員も初経験です。こんなあやふやな審査員の選評はあてにせず、皆様は自分の道を信じて書き続けていただきたいと思います。あまり恥をかきたくもないのですが、選評を書くのが審査員の仕事ですので、笑って受け流していただければと思います。各作品それぞれに、作者さんの個性があふれていて、それぞれに魅力的な戯曲だった思います。
『アンダーカレント』
能を原案にしたとのこと。夢幻能の世界観で、此岸と彼岸がそのままこちらの岸と向こう岸という見立てをされている不思議な戯曲。全体的に幻想的な空気で出来上がっていて、ふんわりとした読み心地が印象的でした。
子供の死を引きずり休職中の夫と、あっさりと受け入れ復職したばかりの妻。妻の元後輩で現上司。人物の配置が工夫されていて自然と興味を引く形になっているのは上手いと感じました。ホームレスカップルはその存在におかしみがあり、カンフル剤としては機能していると思います。ただあの二人の存在が内包する何事かが伝わりづらく、賑やかしになってしまったように感じられてもったいないと思いました。
「自分の子供の死」という極めて深刻なテーマを、あえて軽いタッチで描こうとしているのかと思いました。それはそれで、一つの選択として正しいと思います。ただ、どこか一か所でも悲しみの大きさのようなものが分かる箇所がないと、ただ軽いだけになってしまうように思います。もう少し、喪失感を想像させる工夫があっても良いのかと思います。
様々な工夫が施されているのは面白いのですが、その工夫に終始してしまい、本質的なものへの踏み込みが一歩甘くなってしまっているように感じました。好みの話ですが、主人公夫妻の切実な心の内をもっともっと我が事のように感じたかったというのが本音です。演劇的な仕掛けの多さが、むしろ核心へと向かう力を薄めてしまっているように感じられてしまいました。テーマが重く大きいときは、趣向は物足りないくらいが丁度いいのかもしれません。自分の課題として、ここは考え続けたいと思います。
『犬が死んだ、僕は父親になることにした』
丁寧に主人公の心情が語られている戯曲だと思いました。視点をぶらさないことによって、作者さんの語りたいことが存分に伝わってきたように感じます。一夜の事件と、それに伴う主人公の精神的な成長という構図は、ベタではありますがとても分かりやすい。ただ根本的に、私は主人公の脆弱さに感情移入ができませんでした。基本的に自問自答で進行するのですが、それがとても閉ざされた世界に感じられて、閉じた心の中で、自分勝手に答え合わせをして満足しているように読めてしまいました。閉じた劇世界の中で、閉じた自問自答を繰り返されると非常に主人公に都合のいい優しすぎる世界に感じてしまいます。もっと厳しい問いを自分に向けるか、厳しい他者を存在させた方が良かったと思います。
男が父になる実感(とそれに伴う戸惑い)というのはそれこそ昔から描かれてきた題材ではありますが、それとペットの死を関連付けるのは、非常にユニークだと思いました。だからこそ、主人公の気付きと成長にもっと納得したかったというのが正直なところです。
『コルチカム』
最初、なんで一人芝居なのかと思いましたが、「大多数の人間は量産型であり大差ない」という皮肉な表現だと気が付き、上手いなと思いました。全役を一人でやることによって、空間や時間にゆがみが生じ、それが効果的に機能していると思います。上演が非常に想像しやすいところにも作者さんの腕を感じます。
ただ、これは短編としての評価です。字数制限のない戯曲賞なので問題はないのですが、他の作品と比較するにあたってそこを考えないわけにはいきませんでした。もちろん、圧倒的なアイデアを見せつけてもらえれば大賞に推す可能性は当然あります。この作品にはそこまで他を圧倒するなにかは見つけられませんでした。個人的には、この登場人物たちのお笑いに執着せざるを得ない、狂気に似た何かを淡々と描いたら面白いんじゃないかと思いました。
『残火(ザンカ)』
2つの震災で繋ぐ平成史のように感じられました。読みながら、自分の来し方がどうしても頭に浮かんできました。俗な言い方をするととてもエモいです。あくまで等身大の個人の生き方を描きながら、どことなくスケールの大きさも両立されていたように読めたのも好印象です。うまく説明できないのですが、読後感が非常に独特で、とても後を引きました。「良かった」でも「悪かった」でもないのですが、とても後々まで心が引っ張られたのは事実です。
人物造形がこなれていて、悪く言うと見たような登場人物が多いのですが、敢えてそこに挑み、それなりに切実な物語に昇華できていたように思います。そうなると、定型的なお約束なキャラクターも不思議に好感を持って受け入れることができます。
審査会で問題となったのはラストの仕掛けでした。私はずいぶんと大技をぶち込むなぁと感じましたが、なしとは思いませんでした。いい意味でも悪い意味でも「うわ、やられた!」と感じたのは事実ですし、なかなかできない体験でしたのでそこには敬意を表します。私はあれを「一人ひとりが自分の人生の主人公ではあるが、それは急に喪失され得る。」という無常さの表現だと読みました。そうであるなら、たとえお客様を絶望させる仕掛けだとしても、立派な表現であると思います。ただ他の審査員の方の批判も的を射たものだとは思いましたので、できたら他の選評もご参考にしてください。作者さんは物語巧者というか、練るのがお上手と感じました。逆に目先手先に拘らず、シンプルに真摯な作劇に挑戦するのもありかと思います。
『藤田嗣治~白い暗闇~』
自分の主戦場であり、また好きなジャンルの「歴史」を題材とした作品だったので、とても好感を持って読み進めました。「芸術とは?」「芸術と社会の関わりとは?」という根本的な主題の立て方がスマートで、存分にそれについて考えることができる作りになっていると思います。
シーンのチョイスがよく練られているので、これを読めば藤田という画家の人生がおおよそ把握できるような親切な戯曲だと思いました。半面、分かりやすさが優先され過ぎている気もします。不親切でも、もっと書きたいところを執拗に書き込んで作家性を見せる勇気を持っても良いかと思いました。全ての登場人物の描き方が多少、表層的すぎるきらいがあるように思います。そこももっと踏み込んで人物造形ができるともっと魅力的になると思います。
主人公藤田の凡人の理解を超えた、「描かずにはおられない」という芸術家としての狂気というか凄味を見せて欲しかったと個人的には感じました。これは好みの問題かもしれません。総じてうまくまとまり過ぎていると言ってもいいかと思います。もっと不親切でも、なんなら破綻しかけていてもかまわないので、作者さんのエゴというか、藤田という人物を使って何を描こうとしたのかが伝わってきて欲しかったです。
実在の人物を扱うときに、嘘をつくことをためらってはいけない。これはもちろん分かってらっしゃると思います。何のためにどんな嘘をつくのか。その選択にもっともっと勇気があって良いのだと思います。等身大の自分ではなく、歴史を調べてその事実をもって世界と切り結ぼうとする、その意志には敬意を表します。更にもう一歩、この作品が何と戦っているのか、それが明白になったらより深みを増すのではないでしょうか?
南千住回遊野外劇『リアの跡地』
偶然、六本目に読みましたが、最初の印象で、これが大賞になるかなぁと予感しました。戯曲としての完成度は一歩抜けていたと思います。南千住には詳しくないですが、舞台の一軒家を絵として想像できました。それに、上演を見たいなと一番感じたのもこの作品でした。
おそらく舞台となる一軒家から出発した戯曲なのでしょう。それもまた珍しくて面白かったです。リア王を南千住の佃煮屋に持ってくるセンスは面白いと思います。不勉強でリア王に関して詳しくないので、その本歌取りについては他の方にお譲りしますが、私は面白く感じました。
登場人物が出たり入ったり、スピーディーに展開していくノリが面白く、変なキャラが変なことを次々に言い出すのもとてもしっくりときている作品だと思います。作品の中でのジェンダーの問題の視点が非常に鋭く、急に刺されたような感じになり、これも心地の良い驚きでした。ただ、ノリの部分が先行し過ぎて、やや唐突な感も受けてしまいます。これはもう好みですが、これだけ刺せるなら、もっともっと切実な何かで刺して欲しかったというのが個人的な感想です。それはともかく、第一印象通り、大賞に相応しい戯曲であることは確かです。おめでとうございます。
以上、六本分全てろくな選評ではありません。どうか他の方の選評を受け止めてくださいませ。大賞に漏れた皆さんも個性的で素晴らしいと思います。偉そうに言っている私もほぼ無冠ですので、どうかご容赦ください。一緒にこれからも書き続けましょう。
1993年生まれ。神戸を中心とした関西圏と東京の2都市で活動する劇作家・フェミニスト。少女都市主宰。2歳の誕生日に阪神・淡路大震災を被災。生家が全壊し、仮設住宅で育った。その経験から、社会的弱者らを主役に、彼女らの抑圧への抵抗・困難からの克服の物語を、当事者意識をもって上演している。2015年『聖女』で岸田國士戯曲推薦。2018年『光の祭典』で平成30年度アイホールbreak a leg選出。どちらもPTSDに苦しむ女性を主役に、震災と性暴力を重ね合わせ、心の被災からの復興を描いた。2021年より南千住を拠点に活動するgekidanU、大阪の若手演劇ユニット・うさぎの喘ギに所属。同年、#KuToo 署名発信者でアクティビストの石川優実氏、NPO 青い空―子ども・人権・非暴力と共同で、国際女性デーによせて『バレンタインデーにみんなで踊ろうブレイクザチェーン』を開催(豊島区共催)。演劇やダンスを通して、暴力の無い社会を実現するための活動を続けている。
募集期間 | 令和2年7月1日~9月1日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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応募数 | 164作品(新規105作品) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年齢別 |
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都道府県別 |
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江本 純子 | (毛皮族・財団、江本純子) |
桑原 裕子 | (KAKUTA) |
斎藤 歩 | (札幌座) |
瀬戸山 美咲 | (ミナモザ) |
長塚 圭史 | (阿佐ヶ谷スパイダース) |
優秀賞 | 『夕映えの職分』 | 南出 謙吾 | (大阪府) |
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最終選考作品 | 『かいじゅうたち』 | 松岡 伸哉 | (福岡県) |
『その先の凪』 | 山脇 立嗣 | (京都府) | |
『ッぱち!』 | 霧島 ロック | (東京都) | |
『フラジャイル・ジャパン』 | 刈馬 カオス | (愛知県) | |
『ムスウノヒモ』 | 中村 ケンシ | (大阪府) |
北海道戯曲賞第一回から審査員を務めていた前田司郎さんよりご指名を頂き、この度初めて審査会に参加しました。わたし自身が作家として未熟であることも十分承知の上で、逡巡しながら臨んでいます。何と評されようとも、ご自身が信じていることを探求し続けて頂きたいです。前田氏からの引き継ぎメンバーとして、この言葉を引用します。「こんな選評はすぐ火にくべてしまえ」
さて、さっそくゴタクを並べたいと思います。いくつかの作品に対して、「共感」させることに躍起になってしまってないかと心配になりました。作品内から生まれる「共感」ではなく、観客の気を引くためにわざわざこしらえた「共感」。そんな人工共感装置がそこかしこに設置されると、その作品は、人々をまるめこむことを目的とした広告媒体のようになってしまいます。
もっと深刻なのは、観客をまるめこもうという自覚もなく、それが正しい戯曲のメソッドであるかのように「共感」装置をせっせと拵えている事態です。そうではないことを祈りますが、その場合はもはや作者の問題というより広告的表現に毒された社会を作ってきたひとりひとりの責任とも言いたくなります。社会の内部からきっちり検証して、人工共感装置も広告毒されメソッドも火にくべましょう。
無理に共感を持ち込まなくても、作品と観客は「対話」します。作者の考えを戯曲にて思うがまま提示して、観客と共にああだこうだと社会や人間のことを考えていこうじゃありませんか。作品と観客の対話の先に、やっと「天然の共感」が生まれるんじゃないでしょうか。その方が最高じゃないですか。
ゴタクが過ぎますね。ゴタクも火にくべてしまえ。
『夕映えの職分』
右と左が衝突する中心部からちょっと外側の円周にいる、はっきりと右でも左でもない人々。強い信念から突き動くのではなく、常に揺れていて、最前線にいる他者に賛同を決めたり、面倒くさかったら同調したり。その人たちの動向次第では、民意が大きく動いていきます。そして、昨今のtwitter上で見受けられるような、政治的な問題が提起されたときに、左右の両ウイングが攻め合うための論争にすり替わって埒があかない事態(しかも結局本質の問題からどんどん離れていく・・)、を想起させるようなこの戯曲は、エッジーな視点だと興味深く読みました。
リベラルな人物ではなく、右よりな?しかしそうとも言えない単に屁理屈ばかり言って相手を言い負かそうとする厄介そうな人物を主人公としたのもよかったです。観客(読み手)に「あるある」と安易な共感を促すこともせず、主人公の醜態を観客だけが目撃し続けることで「ちがうだろ」と「そりゃないわ」と、饒舌に突っ込まざるを得ない心境になります。観客からの(無言の)積極的ツッコミ介入が追加されることで、この戯曲はより演劇らしく膨らんでいきそうです。作品と観客の対話の形を孕んでいます。このような人物へのツッコミをただ客観的に行うだけではなく、笑ってばかりもいられず自分自身を省みます。わたし自身はそのように促されました。
この主人公が、「すっ」と対話の腰をあげるラストについて、読者としては更にこじれていく展開も期待しました。でも、他者との対極を守り抜こうと己を信じきっているわけでもなく、社会不適合者的に人の話を聞けないわけでもなく、どっちでもなく外側円周をうろうろしている、気の小さい人間ならば・・・。冒頭から、相当びびりながら話しているのかも、と想像が膨らみ、この短い時間での微細な緊張感の揺れに更に注目が及び、腰をあげながら呟く最後のセリフのひねくれ具合が、人間らしさの象徴のように響きました。この短い時間に動き続けていた主人公の揺れを、虫眼鏡で慎重に追いかけていきたくなります。演じる俳優、演出、観客にとって濃密な時間を立ち上げることができる戯曲かと、受賞作に推しました。
『フラジャイル・ジャパン』
最初は被災地の政治利用について描く姿勢に信頼を寄せたい気持ちで読み進めましたが、結果的には悪質なキャッチセールスに遭遇した気分です。
社会的に関心の強い事柄を寄せ集めて、観客の気を引こうとしている「共感」装置満載の戯曲かもしれないという懐疑心が終始拭えませんでした。臨月間近の女性を登場させて展開する筋にも、ドラマチックなシナリオメソッドを感じてしまい、戯曲というより、商業ドラマのシナリオのようでもあります。たとえ商業ドラマのようなシナリオであろうとも、その技巧やセンスが素敵だったら喜んでまるめこまれにいきますが、それも難しかったです。
特に石巻市・大川小学校で実際起こったことの戯曲への取り入れ方は、乱暴に思いました。
この作品が大川小学校のことを全く想起させないくらいの完全なフィクションであったら違ったかもしれませんが、実際に起こったことを十分想起させる描き方をしています。であるならば、そのことについて作者自身が戯曲上で何を語るかと、独自の見解なり、実感を期待しますが、そのようなものは発見できません。この件に対して、主体的になっていないからだと見受けられます。当事者として、大川小学校で起こったことについて向き合っていたら、この戯曲で描かれているような男女関係のシーンを、創作できるものかと、考えてしまいました(今も考えています)。二次創作するような感覚で、表面だけを切り取って、作者が描きたい「ドラマ」の道具にしていないでしょうか。
大川小学校で起こったことは、天災か人災なのか、かんたんに断定できるようなことではなく、いまでも現在進行形で当事者たちが抱えている問答であり、直接当事者ではない人間が当事者的意識をもって共に考えていかなくてはいけない重要な問答でもあります。人間の責任を問う「人災」の側面について、この戯曲のシーケンスのひとつとして描きたかったのかもしれませんが、だとしたら大川小学校を取り上げなくても描けます。
描くならば、事実と繊細に対話していただきたいです。そうでなければ、実際の当事者たちに対して、とても不誠実です。
『その先の凪』
コロナ禍を物語背景に設定した戯曲。コロナの現状を踏まえて描こうという作者の意欲は応援したいです。
が。現代人として、後世に対する責任をもって語っていくことかと思います。コロナ問題を現在進行状態で抱える超当事者として描けることもたくさんあります。今は渦中にいすぎて、語る準備すらできていないかもしれないと慎重にもなります。この作品でのコロナの扱い方に対しては、厳しい気持で受け止めました。
そもそも「この戯曲にコロナは必要だったのか??」 この物語は、白血病を患っている息子(祐治)が亡くなった理由をコロナとしなくても成立するようにも思いました。彼がコロナ感染したこととコロナ禍の物語設定は、新規レイヤーを作成して重ねたようにもとれました。
最後の時に立ち会えず、遺骨が入った箱での対面だったという状況をそのまま台詞で説明しているシーンがあります。ネットニュースやメディアで見聞きした情報をそのまま使っているだけで、そこに作者の見解や実感・・・さっきも同じこと言いましたね(『フラジャイル・ジャパン』にて)。
後半語られていく祐治の行動やエピソードの描写に見えるエモーショナルでフィクショナルな趣も、どこかで聞いたことがあるような使い古された表現のコピーのようで、とても嘘くさいのです。一貫して美化主義ですし。わたしは、登場人物たちの死者に対する行き場のない慚愧よりも、生きている人間の傲りの方を感じました。
コロナ設定もエモーショナルな表現も、共に人工共感装置のおともだち「感動引き起こし装置」の一環としてコラージュされているだけのように思いました。この戯曲は、「死」を使って、泣かせにきてる??そんなに泣かせにこられたら、ハートが冷めてしまいます。
『ッぱち!』
関西弁で編まれた戯曲は新鮮で、旅先の国の戯曲を読んでいるかのようでした。方言独特の音から生まれる、関西弁グルーヴの心地よさにもハマって読みました。人物たちがいる場所の空気とそこで流れている時間が、これまた心地よいリズムで立ち上がってきたので、読んでいて楽しかったです。「笑い」の存在がいつも先頭にあるのは好きな点です。共感装置的笑いではなく、作者の描いたコミュニティにとっての必然として受け止めました。
ただ、筋というか、物語は大雑把で、強く推せませんでした。「本物と偽物」と「本当と嘘」は違うと思うのですが、その両方が混在していました。
この作品に見受けられる差別的表現について、審査会で一瞬話題に挙がり、作者がそれを自覚的に使用しているかどうかが論点となりました。
モラルとか社会的通念を獲得するよりも、人間へのまっすぐな視座を獲得するほうが、差別や偏見がなくなっていく近道かもしれないと思うことがあります。
この戯曲に、作者の差別表現への自覚を問うてしまうと微妙なところですが、人間へのまっすぐな視座を感じ、そこには光を感じます。素朴に人間を見つめるまなざし・・それは忘れたくないなと思いました。
『ムスウノヒモ』
とにかく登場人物たちがよく語ります。物語のテーマとして、必然の語りかもしれませんが・・それでも、その語りの内容を面白がれなかったのは、語りの口調も内容も、プロットのコピペのままのようで、まったく立体的に立ち上がってこなかったからです。読みながら、この作品世界への距離を縮められませんでした。
『かいじゅうたち』
セリフ、人物の描き方、素材のそれぞれが記号的で、古典的な漫画表現のようなセンスが散見されます。・・30年前に読んだ赤川次郎を彷彿とさせます(漫画ではありませんね)。
とても一人の人間が行方不明になった状況とは思えないような人間描写が続きます。これがもし主人公以外の登場人物がみなサイコパスのような人格ならば・・・納得できそうです。
ここに描かれている全ての展開・描写を、「ありえない」や「偶然」がひたすら続くホラーコメディーとして転換したら、面白く成立する可能性もありそう・・とにかく隙がありすぎて世話を焼きたくなる戯曲でした。
以上です。長いですね、読んでいただきありがとうございました。
6作品の作家のみなさんへ。戯曲を拝読し、たくさんの考察点に出会えたこと、感謝します。審査に余計な先入観が入らないようにと、作家のお名前とプロフィールは一切渡されませんでした(今年からそうなったそうです)。お名前は戯曲賞のホームページを見れば掲載されているのでまるわかりなんですが、事務局の意図を伺ったので積極的にはキャッチしませんでした。
またなんらかの作品を通じて対話できたら嬉しいです、勘弁かもしれませんが。
今年の候補作の傾向として、死にまつわる喪失と鎮魂の物語が圧倒的に多かったのは、やはり今の特殊な状況を表しているのでしょうか。
『ムスウノヒモ』と『その先の凪』は病によって、『フラジャイル・ジャパン』『ッぱち!』『かいじゅうたち』は事故(過失も含め)によって家族や恋人を亡くし、前に進めずにいる人たちを描いていました。
一定の距離を持って読まねばと思いながら、つい自分事と重ねて感情移入してしまい、冷静に読めない瞬間もありました。審査員として失格じゃないかと思う一方で、戯曲を読むという行為自体、完璧に個人感情と切り離すことなど出来ないのだと開き直りもし、こころの揺れに素直に従いながら読みました。
しかしそれらが安易な悲話に留まっていないか。生死がいたずらに扱われていないか。類似性の強いテーマが揃った今年の審査で、その点は厳然と注視して臨んだつもりです。
私は中でも『その先の凪』に心を揺さぶられました。
候補作の中で唯一コロナ禍であることが明確に示されているだけでなく、息子をコロナで亡くしているというかなり直接的な内容であるため、審査員からはまだ現時点で描くのは早いのではないか?という声もあがりました。確かに、この伝染病に関する情報は日々更新されているため、ほんの数ヶ月前の認識が今とずれてしまう危うさはあり、少なからず抵抗感を抱く人もいるだろうと思います。
ですが容易に出歩くこともままならない今、それでも喫茶店に出かけた老夫婦の想いにはやるせないほどの必然を感じました。対面で話せず、声量や行動も制限されたなかでこそ生きる会話劇。今作においてコロナは抑制や沈黙のメタファーであり、声小さき者たちの想いを丁寧に掬い上げた物語であると私には読めました。最後まで優秀賞に推しましたが、やはり抵抗があるという声が大きく、力及びませんでした。
『ムスウノヒモ』も『その先の凪』と同様、家族を亡くした遺族の思い出話を中心に物語が展開しています。良いエピソードもたくさんありましたが、やはり舞台は「今ここで何が起きているか」ということが重要だと思うので、そこにいない人の思い出がひたすら語られ続ける中盤の家族会議は少々辛いモノがありました。それよりも夫の顔の痣について妻が「寝ているときに手で隠して綺麗な顔を想像したことがある」と告白した瞬間の方が、様々に複雑な心情を想起させられてスリリングでした。
また、遺族や特殊清掃業者が“死者の匂い”について何度も言及していますが、観客にもその匂いは想像によってすり込まれていますし、かつて父だったモノ、の匂いなのですから、そこには痛みも伴います。だから後半まったくそのことに触れぬまま、父親の死臭が遺る部屋に長々と居座り思い出話ができてしまうことに違和感を覚えました。この場で話すべき必要性があるようでいて、ない気がしたのです。
刈馬カオス氏の作品『フラジャイル・ジャパン』は土砂災害という悲惨な出来事によって家族を亡くした町の人びとが、被災地を観光地化して遺すか否かの議論をかわし合います。せめて起きた悲劇を風化させぬようにと形あるものを遺し、心に刻んでいくか。記憶に蓋をし、忘却によって救いを求めるか。遺族、生存者、あるいは救出の不手際により過失を問われた人…質も大きさも異なる傷跡を理解しあう難しさを、政治的な観点も含めて描いていくのは興味深く、徹底的に描けば素晴らしい作品になる予感がしました。でも、この作品の登場人物たちは自らの傷や秘密をあまりにするすると語りすぎています。事故のことだけでなく、亡き妻が見える話や、昔の恋人と別れた理由に至るまで。人ってそんなにたやすく他人に自分のことを打ち明けられるものでしょうか。話す相手や時期を選ぶものだし、傷が癒え、整理出来るまでには人によってとても長い時間が必要で、そんな人のために被災観光地があるのではないでしょうか。各々の問題を早く明示するためにそうした部分が雑になっていたように思います。
昨年「Share」で優秀賞を獲られた霧島ロックさんの『ッぱち!』は、登場する誰もが「自分は本物ではない」という想いを抱いてそこにいる、多種多様な“パチモノたち”のあつまる場所という設定が面白いです。でも実はそのタイトルが示す意味がなかなか終盤まで入ってきませんでした。旧友が突然訪ねてきた理由や、親でも親戚でもない中年ふたりが同居しているわけなどを、あまりにぼやかしたまま長引かせるため、不明瞭な背景の人びとに興味を抱き続けることが難しかったからです。
それでもキャラクターの魅力や会話の愉しさで場を持たせる力が霧島さんの作品にはあると思うのです。が、「Share」では楽しめた少々ベタな笑いが、今回は全般的に古すぎると感じてしまいました。古典的ギャグという意味ではなく、「ハーフのサーファー」や「夜な夜な高級外車を乗り回し、六本木でハイレグ美女と…」といった90年代的な概念が目に余ってしまったというか。わざと古くさく描いてみたというのなら良いのですが、無邪気にそうなのだとしたら下手をすると今は差別的にとれてしまう内容もあるので、アップデートしたほうが良いと感じました。
『かいじゅうたち』を読んですぐに、過去にも最終候補作になった松岡さんの戯曲だと分かりました。福岡弁、茶の間で繰り広げられる朝の風景、疑似親子、交錯する時間…これらの要素が、今まで読ませていただいた松岡さんの作品に通底しているからです。
いつでも私はその軽妙な福岡弁のやりとりに魅力を感じ、疑似親子の関係性に興味を持ちます。しかしいつも同じところでつまずきます。それは、過去と現在を幾度も行き来する中で、登場人物たちの感情があまりに都合よく処理されてしまうことです。
今回でいうならば、事件性の強い出来事があるにもかかわらず、鍵を握る重要人物をあえて10年ものあいだ野放しにしています。その原因は母親の無責任さ、子どもの従順、叔母の献身、父親の無関心などにありますが、どれもこれといった根拠が見えず、それらの性格付けが少女失踪と母親蒸発を強引にミステリにし立てるための作者による恣意的な操作に思えました。
また、前回候補になった作品も今作も、どこかの映画で見たような感覚があります。
既成の作品に影響を受けたり、現実の事件をモチーフにすることは全然良いと思うのですが、もしそれをするならば(特に生死を扱うのであれば)上澄みの要素だけを掬い取るのではなく、自分の中に深く落とし込み、作者の思い通りにいかない人間の心を粘り強く描いてほしいのです。
扱うテーマの重さからどうしても辛い気持ちで読み進むことも多かった今年の候補作の中で、一切、死の匂いが漂ってこなかった『夕映えの職分』には、読後に不思議な爽快感がありました。なにより主人公が器の小さな俗人で、物語を通じて特に成長などしないところがすごく良い。わかり合えていると思ってた人たちととことんズレてしまっていたことに打ちのめされながらも改心することなく気を張って、だけど最後にほんのすこし、ほんのすこしだけ他人の話を聞いてみようとする。しかもそれはたまたま30分時間が出来たから…ちょっと今寂しいから…この人くらいしか話す相手がいないから…という。愛おしい男です。不格好にインターホンと格闘する様や、冒頭で運動会の映像をひとり微笑ましく見ていた姿も後になって思い起こされ、最初はやや反発を持って見ていたこの教師に、最後は哀愁の色気さえ感じました。
私は『その先の凪』と並び、『夕映えの職分』も推したいと思って審査に臨みました。
しかし、大賞なのか、優秀賞なのか、この作品を「どこに」推すべきかでは悩みました。候補作6作品で相対的に見た場合、大賞として選ばれることに異論はなかったのです。ただ、全ての候補作を読んで、ずばり大賞に推したい作品が思い浮かばなかったというのが、審査会に臨む前の正直な気持ちではありました。
様々な視点から議論が繰り広げられた末、南出さんの実力ならばもうひとつ深く食い込んだ作品が描けるのではないか、これが大賞ではないんじゃないか、といった意見に私も頷き、今回の結果となりました。
南出さんおめでとうございます。「夕映えの職分」、是非上演されたら拝見したいです。
戯曲にはどんな形であれ「今」が現出するということを、改めて感じた今年の北海道戯曲賞でした。
ずっと未来にこの2021年をどう振り返るのだろう、やはり異常な年だったと思い返すのだろうか。長塚さんが審査会の最初にそう仰ったのが、とても印象的です。
来年はどんな作品が生まれるのでしょうか。
何を生み出せるのか。自分にも問いかけていこうと思います。
『かいじゅうたち』
サスペンスという側面で、謎を追いかけてしまうという意味では読み進められたのだが、美里の告白で一気に陳腐になってしまった。次々に現れる女性たちすべてが、辛い女たちだらけなのだが、それが「かいじゅうたち」なのか?沖縄で出会う偶然とか、ダイビングのエピソードが何なのか?日記の登場も都合がよすぎる。
勇夫がずぶ濡れで帰ってきて「浮いてくる」とか言うあたりがこの作家のイメージの核なのだろうが、人をひき殺して埋めた女のリアリティのなさや、母親はなんでこうまでネグレクトなのかや、不在の間どこで何をしているのかも不明過ぎるし、娘もどうしてこのようにいられるのかにもリアリティを感じられず、私には評価できなかった。
『その先の凪』
台詞で喋りすぎているのではないだろうか。もっと隠していいのでは?そんなに説明してくれなくてもいいし、夫婦でそんなに具体的にテーマに近い中身や心情を言葉にしないはずだと私は感じる。お母さんの態度にも違和感。白血病+コロナという設定や、弟が死んた後の祐治や、その後の祐治に一人の男性としてのリアリティがない。
喫茶店の中の壁紙の色とか、水槽の泡の音など、きちんと計算されたイメージが一貫していて、上手に組み立てられているとは感じる。審査員の中には読みながら涙してしまった人もいたらしい。そういう力のある戯曲だったようだが、私にはどこで泣けてしまうのか全く分からなかった。審査会では、この作品に対する議論に最も長い時間が割かれた。
コロナ禍でこの感染症や感染した人、感染により亡くなった人やその家族をどう描くのか。劇作家は今、コロナ禍をどのように描くのかについても、審査員の間で議論になった。この作品を評価する審査員も複数名いたが、私には、震災遺構を扱った作品同様に、描き方に安易さがある気がして、好きになれなかった。ワイドショーや報道などで知りうる情報をもとにした一般論で個人は描けないのではないだろうか?1万人が感染した、1万人が被災した、ということではなく、一人一人の感染、一人一人の被災が1万件生じたということであって、一つ一つには異なった事情や背景があり、当然個別なのであり、一般論では演劇にできないと私は考える。
『ッぱち!』
審査に入る前、6本の戯曲を読む際、その作品を書いた作家の名前は知らずに読んだのだが、この作家の作品は、昨年読んだ気がした。設定や会話はちょっと面白くなりそうだが、ミチルという妹の態度や雅人の存在の仕方などに無理を感じるのと、同居している二人のオジサンたちが本当にわからない。何でいるのか。訪ねてくる女友達の惚れっぽさも、強引。強引さが面白いこともある。それはわかるし、私も相当強引な本を書くこともある。だがどこか「いいお話」に落とし込まれてしまっていないだろうか?
『フラジャイル・ジャパン』
状況設定が安直過ぎる上に、人物たちの設定も都合がよすぎる。梨南子と遊作の肉体関係は必要なのだろうか?健三のDVも必要なのだろうか?どんなに架空の状況を設定しても、実際に起こった災害の状況が頭に浮かぶ。三陸の小学校での被災や、広島での土砂災害など、具体的な被災地の事が頭に浮かんだ。震災遺構をどう残すのか、壊して次のまちづくりを始めるのか、実際に被災地では真剣な議論が続いており、それぞれの地域が苦闘している。震災遺構を利用した観光開発で街に活気を生もうと考える地域も実際にある。しかしこの戯曲は、そういった表面的な情報を利用して、そこにドラマになりそうな要素を当てはめて書かれているような気がして、好きになれなかった。一つ一つの被災地にある生活は、もっと具体的でもっと根深く複雑だと私は思う。被災地の人たちの葛藤を都合よく利用してはいないだろうか?
『ムスウノヒモ』
人が孤独死をした部屋の掃除をする仕事「特殊清掃」を題材にした戯曲はいくつかある。確かにドラマになりやすい気がするのか、時々見かける。なかなか顔を合わせることのなかった親族が一堂に集まり、亡くなった人のことを話す場面が、劇になりやすいと感じるからだろうが、この作品の場合、台詞に無理がある箇所が多いと感じた。人物の設定が大雑把なのだろうか。わざと対立させて問題を表面化させている部分が多い。お客さんを怒らせてしまう特殊清掃会社の女性社員の過去のボランティアにおける体験談や、顔の痣に対する母親の態度を語る場面にも、どこか腑に落ちない無理を感じる。
『夕映えの職分』
今回の6作品の中では、一番かと思った。次々に電話やインターホンに対応する場面などが、なかなか滑稽で、なぜか低いところにあるインターホンなど、世の中にある何故だかわからないがそうなっている不条理が面白い。君が代を歌わせようという、ノンポリな発想をする人物を主人公にしている点もいい。一人芝居はあまり好みではないが、とても気になった。しかし、大賞か?と問われれば、そこまでは至っていないと思ってしまった。
北海道戯曲賞の審査員をずっと続けていて、これまでなかなか大賞を出せずにいた。毎年このことが議論になってきた。大賞を出すべきか、出さないのか。今年、当初から審査員を一緒にやってきた前田司郎さん、土田英生さんも今年からいなくなり、新しい審査員の皆さんと議論した。これまでの審査基準を一旦取り払って、新たに大賞となる基準を見いだせないかという期待もあった。しかし、私以外の審査員の皆さんも、私と同様の感想をお持ちだったようで、「大賞か?」と問われれば「う~ん」と首を傾げてしまったようだ。
確かにこの作品、後半、バタバタと教師が職員室を動き回り、次々に降りかかる災難に立ち向かうさまは面白いのだが、そこに至るまで、一人で教頭先生に電話で話しているときのセリフや、仕立てに工夫が足りない気がしている。今主人公が置かれている状況の説明が長々となされるわけだが、その説明が直接台詞で語られるのだが、そこが弱いと思う。この前半の独り語りの言葉の選択や、単なる説明に終わらない仕掛けがあれば、私も満足できたのではないだろうか。
今年から審査員をつとめることになりました瀬戸山美咲です。よろしくお願いいたします。
最終候補に残った戯曲は、不在の死者を生きている人が想像する作品が多かったように感じました。ほかの審査員の皆さんから今年特有の傾向だと伺い、今だから感じること、今しか感じられないことが戯曲に強く映し出されていたのだと思いました。ただ、それが個人的な「気分」の中でとどまっている作品も多く、今を描くことの難しさも実感しました。
『かいじゅうたち』は読み始めてすぐ作品の世界に引き込まれました。同じ日に主人公の母親と近所の少女が行方不明になるという不穏なセッティングは見事だと思います。ところが残念ながら物語が進んでも同じところをうろうろして、謎が解明されたり深まったりという展開はありませんでした。最終的に明らかになった事実もとってつけたような印象でした。とはいえ、ミステリーとして完結させる必要があったかというそうでもないと思います。育児を放棄した母親と置いていかれた娘が、それぞれ何を思って今日まで生きてきたか、そして再会したときに何が思うか、そのふたりの心の深層がしっかり描かれていれば力強い作品になったと思います。ただ、その方向の描写もかなり食い足りなく感じました。タイトルから想像するに「人間のわからなさ」を描きたかったのだと思うのですが、この作品の登場人物たちはただ感情が薄く、浅い感傷に溺れている人たちに見えました。
『その先の凪』は好きな作品です。感染症が蔓延して不要不急の外出を控えなければならない状況でも、わざわざ会って話さざるを得ない人たちの姿に人間の本質を見ました。今、たくさんの悲しみの中で、自分の悩みなんてたいしたことないから我慢しなきゃと思っている人は多いと思います。この作品はそういうひとりひとりの人を肯定してくれる気がします。これは亡くなった人を想像する作品のひとつですが、「取り返しのつかないこと」「確かめようのないこと」をしっかり描き、生きている人たちの心の「やり場」にフォーカスを絞っているところが他の作品より優れていたと思います。また、横一列の座席とささやき声の会話や、喫茶店の壁の色や鏡の存在、水槽の音など、ビジュアルや音への意識が明確だったのもよかったです。ただ、ところどころでテーマを語りすぎていることが気になりました。自然な会話を書けているとは思いますが、もっとお客さんに委ねていい部分があるかもしれません。また、最終的に息子はコロナで亡くなったという設定ですが、その描写がニュースなどで知る事実を超えておらず、必然性があったのかは疑問が残りました。そのような部分をもう一度見つめて書き直したら、2020年を記したものとして残っていく作品だと思います。
『ッぱち!』は宙ぶらりんな人たちの宙ぶらりんな場所での宙ぶらりんな会話が妙な味わいを醸し出している作品でした。ただ、主人公の恋人がもう亡くなっているのだろうということが最初からわかってしまい、最後に真相が語られても「そうか」という印象しか残りませんでした。むしろ、最初に真相を明らかにした状態で宙ぶらりんを描いてもよかったかもしれません。もうひとつ気になったのは、登場人物表の白石ケンの箇所に「ハーフのサーファー」と書いてあったことです。「ハーフ」であることが彼の人間性を決めているような書き方に違和感を抱きました。「ハーフ」という言葉そのものに潜む差別性にも無自覚だと思います。物語の登場人物たちは必ずしも倫理的に振舞う必要はないですが、作者は差別や偏見を認識しながら書く必要があると思います。
『フラジャイル・ジャパン』は構成がしっかりした作品でした。冒頭10ページまでに舞台となる街の人々が抱える問題を明らかにし、その後の情報開示のタイミングも周到に計算されていて非常に読みやすかったです。さらに、亡くなった妻が壁の隙間に立っているのが見えるという描写が、強固な構造の中で余白のように感じられ心惹かれました。しかし、この妻に死後の町の記憶もすべて知っているナレーター的な役割を与えたことにより、その漂う「気」が消えてしまったのが残念でした。彼女を亡くなったときの時間軸に置いていたら違っていたかもしれません。また、作品全体としては、題材になっている実際の出来事の印象が強いため、少し設定を置き換えただけでは現実に負けてしまい、題材として利用しているように見えてしまう恐れがあると感じました。もっとフィクションとして構築するか、現実に寄り添うならばとことん寄り添ってその出来事に実際にかかわった人が観ても何かを感じられる作品にするか、どちらかを選択したほうがよいと思います。
『ムスウノヒモ』は孤独死した父親の家に集まる人たちの話ですが、場所への意識が低すぎると思いました。『フラジャイル・ジャパン』も人が亡くなった場所が舞台ですが、9年のときが過ぎているため人が集まることもどこか受け入れられたのですが、亡くなったばかりで遺品整理をしている状況で家族たちがこの場所に居続ける理由がわかりませんでした。また、ひとりひとりが語りすぎていること、セリフだけで話が進んでいることが気になりました。語られるエピソードひとつひとつは興味深かったのですが、エピソードのためにセリフを書いているような印象も受けました。
『夕映えの職分』は今回唯一声を出して笑った作品でした。一人芝居ですが電話やインターフォン越しに相手が存在する会話なので、最後まで飽きずに読めました。何より主人公に確固たる思想がないのが面白いです。運動会で一等賞を取った生徒にオリンピックにならって国歌斉唱させる先生、という人物像が絶妙でした。その無邪気さとそれゆえのたちの悪さをセンスある台詞で書いていて、実在感を持った人物として迫ってきました。今の政治の状況を見ていると、なぜこの政治家に投票する人たちがいるの? と疑問を感じることもたくさんありますが、この芝居の主人公のような人がたくさんいるのだと思えました。そして、彼のような人物こそ、演劇で描かなければならないのだと思いました。個人的には、最後、対立している先生と話をすることを受け入れる箇所が少しあっさりしているように感じましたが(現実ではもっとたちが悪いと思うので)、でも作品としてはちょうどよい加減だと思います。よくできた作品ですが大賞まで推せなかったのは、もうひとつ現実を突き抜ける視点が欲しかったからかもしれません。しかし、ぜひ生で上演を観て大笑いしたいと思う作品でした。そういうパワーが感じられる戯曲です。南出さん、本当におめでとうございます!
非常事態の2020年に書き上げられた戯曲群は、社会問題へ視界を広げようとする傾向が多く、昨年までの作品群とは明らかに違っていた。焦点がある程度定まっているため、そして共有する問題意識への刺激ということもあり読みやすい作品が多かった。
『かいじゅうたち』はネグレクト、そこから生じる孤独と貧困、未解決の行方不明事件とその家族の心理、果ては殺人事件などへ展開していく社会問題を取り入れたサスペンス調の劇なのだが、少ない登場人物の中で全ての事件を収束させたがために、提起された(あるいはされてしまった)様々な問題はそのスケールにそぐわぬまま結末を迎えた。例えば家族であっても、各々個人に過ぎず、決してわかりあうことが出来ない、ということでもいいのだが、作者が重心を置く視点が欲しかった。前回前々回も最終候補に残った作者の作品は、卓袱台のある居間、奥の台所、そして隣家へと続く小さな庭のある縁側を舞台に、時間・空間を超える家族劇を扱うことが多い。というかもはや執着していると言っていいのではないかと思うのだけれど、その執念のようなものはどこから来るのだろう。永遠に使い続けたい舞台装置を既に所有しているのだろうか。などという関心を抱いたのは余談である。
コロナ禍の現在を舞台に描いた『その先の凪』。おそらくこの作品が審査会で最も議論の対象となったのではなかろうか。厳然とそこにある解決の糸口がまだはっきりとしていない問題を扱う際に起こり得る反応には頷ける部分も多くあったが、老夫婦の不機嫌な会話や、マスクをつけた物静かなウエイトレスの佇まいなどに私は好感を持った。ただ一点、どうしても理解しきれずに推せなかった。コロナ禍、喫茶店に訪れた老父婦。重度の基礎疾患があった為にコロナ感染で死亡し、会うことも叶わず骨壷に納められて帰ってきた息子を回想するため、あるいは理解し、罪滅ぼしをするため、息子の元婚約者と対話する。老夫婦はかつて息子とこの女性との結婚を認めなかった。彼女は当時DVから逃れてきた子連れのシングルマザーであった。一方コロナで死んだ息子と老夫婦の間には誰にも語らぬ辛い思い出がある。それは幼い頃海水浴でふざけて浮き輪の空気を抜き、弟を死なせてしまったということ。この罪を引きずった家族の胸中が明らかになってゆく。しかし婚約者の連れ子とその海で死んだ弟の名前が合致するということが明らかになる場面で私は急に劇から追い出されたような気持ちになってしまった。名前が同一であったことがキッカケとなって女性との関係が始まったのだとすると、何やら急に焦点が掴めなくなったのだ。この事実は作劇として偶然であるはずもない。しかしかつての弟の死や同一する名前という衝撃の事実を聞いた際の元婚約者女性の落ち着いた反応に私は困惑してしまったのである。これには様々な見方があるだろう。ただ私はそこで宙に浮いたまま結末を迎えてしまった。読み返してもその浮遊感は払拭出来ぬままであった。
『ッぱち!』は前年の優秀賞受賞者だと読み始めてすぐに気がついた。スルスルと楽しく読んだ。逆に言うと微細を突っ込まずに読まないと度々立ち止まってしまう。舞台となる古道具屋の主人が、旅に出たまま戻って来ない恋人の父と同居しているというそもそもの設定や、登場人物の性格付けも荒っぽい。恐らく特定の俳優に向けて存分に当て書きされた作品で、常連の観客を楽しませたであろうと予想するが、本賞の対象ではないと判断した。愉快な関西弁の会話は作者の得意とするところ。書き続けて欲しいと思う。
『フラジャイル・ジャパン』は劇構成がしっかりしていた。作者は資料もよく調べて特定の事故・場所とならないよう配慮し、いくつかの事実を織り交ぜたのだろう。だが寧ろ審査会ではその織り交ぜ方が批判を呼んだ。私は構成としてはまとまっているものの、中心人物である伊達健三だけに見える幻とも幽霊ともつかぬ先立った妻・梨南子が、立場を判然とせぬまま、オールマイティに劇全体のナレーションを務めることに強い違和感を覚えた。そして十年前豪雨による土砂崩れが直撃して多くの人が命を失い(幻の妻はそれ以前に亡くなっている)、その保存如何が問題となっている廃墟となった小学校の教室が舞台となるのだが、事故から既に時間が経っていおり、そして架空の地域であるとは言え、こうした事故現場で劇が展開することにも素直に賛同出来なかった。
印象深いエピソードが多かった『ムスウノヒモ』。樹海の入り口へ出向いたときのカラフルな紐のイメージやハーモニカが見つかる幕切れなど。ただあまりに饒舌である。孤独死した父の最期の部屋で特殊清掃業会社の人々までもが次々に口を開く。寧ろ死者の思い出を饒舌に語る滑稽、誰一人黙ることなくひたすら語りまくる中で、孤独死と向き合う遺族、いずれ我が身にも降りかかる老いの問題を描くことは出来なかったのだろうか。
『夕映えの職分』。どこまでも器の小さい主人公教師に笑った。またこの矮小で思い上がったノンポリ教師の圧倒的本音で語るポピュリズム的言動に、我々が正面から向き合わずにいる、自己の中にもある弱肉強食の論理や、長いものに巻かれて多数意見に乗り掛かる安心など、チクチクと刺激されて心地よい。優秀賞に相応しいと最初から推した。
大賞が出なかったのは何故か。この戯曲賞の審査基準が審査員の独自の視点であって良いと認識した上で、やはり鮮烈を求めるからである。巧者は現れるものの、作者の肉体から紡ぎ出される圧倒的な台詞・視点になかなか出会わない。ギリギリ決着のところで溢れ出た作品…との出会いを求める場所なのかどうなのかわからないのだけれど、少し行儀が良すぎる。どんなに個人的であっても、広く社会的であっても、沈黙を続ける劇であってもいい。迸るものを求めるのである。お前自身はどうだと問われて俯かないように我が身に冷徹の眼差しを浴びせつつ。
1974 年生まれ。石川県出身。劇作家、演出家。
大阪を拠点に「りゃんめんにゅーろん」の主宰として、脚本・演出を担う。また、東京を拠点に「らまのだ」の座付作家としても活動。稀に俳優も。「触れただけ」で、2016 年度日本劇作家協会新人戯曲賞受賞。「終わってないし」で第2回北海道戯曲賞優秀賞。らまのだとして「青いプロペラ」にて、2018 年度シアタートラムネクストジェネレーション選出。
募集期間 | 令和元年7月1日~9月5日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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応募数 | 133作品(新規88作品) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年齢別 |
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都道府県別 |
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桑原 裕子 | (KAKUTA 主宰) |
斎藤 歩 | (札幌座チーフディレクター) |
土田 英生 | (劇作家・演出家・俳優/MONO代表) |
長塚 圭史 | (阿佐ヶ谷スパイダース主宰) |
前田 司郎 | (作家・劇作家・演出家・映画監督/五反田団主宰) |
優秀賞 | 『さなぎ』 | 本橋 龍 | |
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『Share シェア』 | 霧島ロック | ||
最終選考作品 | 『あいがけ』 | 鈴木 穣 | (千葉県) |
『害悪』 | 升味 加耀 | (東京都) | |
『さなぎ』 | 本橋 龍 | (東京都) | |
『さよなら、サンカク』 | 松岡 伸哉 | (福岡県) | |
『Share シェア』 | 霧島ロック | (東京都) | |
『須磨浦旅行譚』 | 宮崎 玲奈 | (神奈川県) | |
『ハイライト』 | 大池 容子 | (東京都) | |
『私 ミープヒースの物語』 | 戸塚 直人 | (北海道) |
今年で二度目の参加、大賞と優秀賞が三本出た昨年が私にとって初めての北海道戯曲賞です。だから基準が厳しくなっていると思うのですが、今年は「好き」と思う戯曲はあっても、大賞に値する作品かと考えたときに迷ってしまいました。
あるいは、どうしたって好き嫌いで読んでしまう部分はあるのだから、個人的な想いでも激しく推せるものがあればよし、とも思うのです。ただ今回はすべての候補作を読んでもそこまでの熱量に至らず、突き動かされるようなものに出会いたかったという思いが残りました。
たまたま今年の傾向なのか、短いシーンをコラージュし、時間や空間をずらしたり、前後にねじったりする作品が多かったように思うのですが、その手法自体は面白いところがあると思うものの、複雑なプロットに対して台詞が追いついていない印象がありました。
設定や背景の状況を曖昧な会話でぼやかす、というやり方が乱雑に使われすぎていないかと思ってしまったのです。
プロットを工夫するうえにも、生きた言葉が必要であること。それらを丁寧に、根気強く、豊かに紡ぐ作業を見たい。と、これは同じようなスタイルで書くことがある私自身へも向けた自省の念です。
以下、そうしたこともふまえ、すべての作品に触れてみます。
『さよなら、サンカク』は過去と現在を行き来する構成に確かな技術を感じる一方、冒頭で家族構成を説明するためにやたらと説明台詞が続いてしまうのが勿体ないと思いました。
主人公の女の子が置かれる状況が恐ろしく悲惨であることは想像できるし、名前を取り戻すシーンもジンとしました。が、人格崩壊を起こしてしまう前の、元がどんな子だったのかをもっと知りたかった。これだけ重い題材を扱うなら、彼女の人生を覚悟して背負ってほしいです。そうでないと、ただ悲惨な目に遭った子がどう再生するのかを描いてみました、というショック&感動ポルノに留まってしまう気がするのです。
昨年も優秀賞を獲った本橋さんの『さなぎ』は、大晦日から年明けまでの数時間を切り取り、日本と異国、時差のある二つの空間を重ね合わせるというアイディアがとても魅力的でした。
ただ、そこで出てくる「曖昧な会話」は、時間や空間をシームレスにするためあえてそうしている体なのだけれど、もしかすると作者が掘っていないところを都合よくぼやかしているのでは?と訝ってしまうところもありました。
また、ジロウ、テツ、父という一つの軸を構成している家族が、三人とも共通して女性との距離の詰め方にある種の幼さを感じ、反して女性の登場人物はやや類型的に見えました。描き分けの偏りを独自の個性とみるのか、視野の狭さとみるのかという点で、今作に関しては後者に感じ(昨年は魅力に映ったのです)、大賞に推すことはしませんでした。
でも、すでに作者の持ち味というものが確立していて、それ自体がすごいことだと思います。だから優秀賞に異論はありません。
『須磨浦旅行譚』
会話のところどころが虫食いになっているようで、1ページ読み飛ばしちゃったかなと何度も引き返す作業で読むのに苦労しました。あらすじがないとわからないストーリー、あまりにも主語がなさ過ぎる会話は、作者の自己完結が過ぎるのでないかと思います。ただ、それが効果的に見えるような、光る会話もありました。そして徐々にその文体に慣れていくと、車内から海を眺め、古墳や食堂に立ち寄りオムそばを食べ公園にたどり着くだけのちっぽけなロードムービーが、不思議と心惹かれて楽しかったのです。なにげないのに忘れられない、ある一日を切り取る目線に味わいがあり、演出してみたいとちょっとだけ(技量を試されますが!)思いました。
『ハイライト』
かつて多くの地方出身者が憧れた東京はもう存在せず、崩壊してしまった町の中で人のなりをした交通安全ロボットだけが手を振り付けている、という絵。さびしくもどこか間の抜けた姿を想像してわくわくし、そんな安全太郎に恋をする女という設定にどきどきしました。ところが、どんな変態的な恋物語になるかと思いきや、そこはさほど描かれていなかったので少し残念に思いました。
前回大賞に選ばれた『バージン・ブルース』同様、限られた人数でテンポよく空間を移していく自由自在で軽やかな筆致は作者の強い武器なのだなと思います。
ただ今回はいつまでも軸が見えないまま強引に場所や時間を飛ばされていく感覚でした。
全員希薄な関係性の登場人物だけで構成するストーリーにおいて、彼/彼女らがどう近づいていくのかという過程は重要な牽引力だと思うのです。そのあたりが端折られていて、いつの間にか皆が当たり前にわいわいとおしゃべりし始めたので、どこへ行き、何をしていても、すべてが「ごっこ遊び」のようなところで停滞してしまい、彼らの過ごす特別な夜を深く追いかけられなかったのです。
『私 ミープ・ヒースの物語』
ゆがんだ政治思想に慣らされていく人々への不安や恐怖、信念を貫こうとしながらも迷い葛藤するミープの姿を今、この時代に描くことには意義があると思いますし、真摯に物語を描く姿勢に好感を持ちました。それでも読むほどに重複した解説がくどく感じてしまいました。教科書を読んでいるようで、生きた会話を感じにくく、理解はできても個人の抱く想いへの共感までには至らなかったのです。終盤、ラウラとの関係があそこまで大きなものになるならば、はじめからミープとラウラの友情関係に焦点を絞ってもよかったのではないでしょうか。この関係こそが今作の最大の魅力だと私は思いました。二人の幼なじみが、時代のうねりのなかでどう変化していくのか。そこを克明に追っていくことで彼女たちを取り巻く社会も見えるでしょうし、もしかすればアンネが登場しなくても良いくらい、オリジナリティのある芯の強い作品になるかもしれません。
『あいがけ』
今年の候補作のなかで、私にとって最も「ちょうどいい」対話の距離感を感じたのがこの作品でした。虚無的な礼司と異国からやってきたマレーシア人・アニ、喪失を抱えた寄る辺なきもの同士が、頼りない糸をたぐり寄せるような会話がとてもよかったです。芝居の狭間でガタガタときしむ家、礼司の妹・敬子のかさついた心に水がたまっていくような雨の描写も印象的で、やわらかく沁みる読後感がありました。
私はこの作品が好きです、という想いでささやかに推しましたが、賛同は得られませんでした。そこをなんとか、ともう一歩強く推せなかったのは、アニが純真に描かれすぎなのでは?というほかの審査員の方々の意見に納得してしまったからでもありますし、出てこない人物の設定が複雑すぎるという声に対し、その必要性を私も強く主張できなかったからです。
世捨て人のような礼司が単に私好みの色気を発しているだけなのかしらん…などと考えてしまったりもしました。でも、色気のある台詞が描けるってすごいことですよね。
『害悪』
人工知能が指揮するAI戦争だとして、なぜ兵士は生身でなくてはならないのか?戦没者が出た場合そっくりなアンドロイドを贈るなら、はじめからアンドロイド同士で戦えばいいじゃないか?と、冒頭の設定からしてうまく乗れずにいました。だから、実はこれこれこうで…と種明かしが来ても、むしろなぜ人々は最初にそこを疑わなかったんだ、とつっこんでしまいました。
劇場をどう使うか立体的に想像して書いている本で、現代的な会話のリズムにセンスを感じます。挑発的な台詞の数々も、アバンギャルドに攻めていく作風として突き詰めればこれからもっと面白くなりそうな気がします。でも、どの人物もやたらと他者を馬鹿呼ばわりするのは、露悪的に見せているのだとしても語彙が足りないのではないかと思います。
『Share シェア』
ボケとツッコミの応酬はちょっと疲れながらも楽しく、ここまで関西ノリが満載のワンシチュエーション芝居は一周回って新鮮にも思いました。ベタながらも愛すべき住民たちのやりとりに何度も笑いました。早希はさばさばしている部分と脆さのバランスが魅力的で、周りがほっとけないのがよくわかります。
とぼけた明るい会話の中に普段は埋もれている悲劇が、時折誰を傷つけるためでもなくぽっと立ち現れる様も、ほとんどうまくいっていたように思います。ただ、最も深い傷に触れる温泉旅行のくだりを故人である香織に夢のなかで語らせてしまったところは惜しい気がしました。
バランスがよく、楽しめた作品ですが、大賞に推すのには何かもうひとつ足りない。それは何かというのを「スタンダードで破綻がないから」と書くとわかりやすいのでしょうが、この言い方は個人的にためらってしまいます。私自身、何度もそう言われてきましたし、得てしてこうしたストレートでアットホームな作風が戯曲賞で評価されにくいことも経験から知っています。
けれど登場人物ひとりひとりに愛情を注ぎ、丁寧にプロットを積み上げていくこと、細やかにユーモアを盛り込む努力もふくめて、評価したいと思いました。破綻がなくてもいいじゃないか、面白ければ、と、角のない丸い石を愛でるような気持ちで優秀賞に推しました。
ただ大賞に値する作品には、やはりもうひとつ強烈な何か、を求めてしまいます。なにかにめちゃくちゃ怒っているであるとか、気の毒なくらい傷ついているであるとか、作者個人の激しい衝動、あほみたいな欲望、禿げ上がるほどの執着、むきだしの赤い肉が見えるもの。
そんな作品にここでまた出会えることを期待していますし、私も描かねばと思います。
最終候補となった8作品を読ませていただき、最終選考会には、残念ながら大賞に推せる作品がないと感じながら臨みました。ただ、他の委員の皆さんの意見も聞いて気が変わることや、私が読み取れなかった魅力に気づかされることも期待しながら、臨みました。しかし、他の委員の皆さんも同様の印象だったようで、今回は久しぶりに大賞を選ぶことができませんでした。優秀賞にも選ぶ作品がないのではないかという議論にもなり、最後まで悩みました。今回は本当に大変でした。
『あいがけ』
アニがマレーシア人であることや、登場しない母親(妻)が中国人であることがこの戯曲にとってどれだけ切実なのだろうか?登場人物の設定や性格付けが大雑把だと思った。
『Shareシェア』
人の出入りのタイミングや、シェアハウスの雰囲気、登場人物の特殊性の際立たせ方、会話によって明らかになる背景など、達者だとは思った。ただ主人公に秘められた背景が明かされるのが遅すぎて、明かされた後のドラマも乏しい。そこそこ面白いものとして上演されるだろうとは感じたが、強く大賞に推せるほどの魅力は感じられなかった。
『害悪』
携帯電話やLINEが頻繁に使われているのだが、その使い方が雑過ぎないだろうか?アンドロイドと呼ばれる人物が実際には舞台に現れることがないので、あとでそれがチップを埋め込まれた人間だったと明かされても、どうもピンとこない。荒唐無稽で大掛かりな設定にリアリティなど必要はないと思うのだが、政府機関の電話受付で働く女性の親戚が大臣であるとか、人物たちの出会い方や、友人関係など、その設定があまりにも都合が良過ぎる。
『私 ミープ・ヒースの物語』
好感は持てた。こういう演劇を今、この国で立ち上げたいという作家の創作根拠を強く感じた。ただ、主人公のミープとは生き方や考え方の異なるラウラとの関係の変化を軸に描くことができなかったのだろうか?「かつてこういう困難な状況の中でも信念を貫いた人物がいました」という偉人伝的な戯曲で、現れる人物が悪い人、いい人、気の毒な人、という表面的な描かれ方ばかりで、説得力に欠ける。主人公が真情を吐露する台詞が多く、そんなに多くの言葉を費やすことよりも、人と人の関係で見せてほしい。
『さなぎ』
極めて個人的な世界で独特の持ち味を感じ、力のある作家だと感じたのだが、どうにも面白がることができず、何度も繰り返し読み返した。女性の描き方が稚拙過ぎないだろうか。それもこの作家の個性と言えばそうなのだろうが、共感に至れなかった。LINEを使ったやり取りを舞台上に現わす作家が増えてきているが、現代のコミュニケーションツールの表現現場での扱い方に、工夫が欲しい。
『須磨浦旅行譚』
選ばれた場所設定、人物の設定、エピソード、地域特性、会話の言葉の一つ一つがどこまで吟味されて書かれたのだろうか?ぼんやりと曖昧で、この人たちでなければならない強烈な根拠、この地方でなければならない根拠のようなものを感じることができなかった。
『さよなら、サンカク』
こうした事件の表面的な見え方を借りた印象。好感が持てなかった。過去と現在を行き来する構造が、加害者と被害者の家族の対比を現すことに効果的に機能していない。人間が抱える闇とは、もっと理解のできない、不可解で深いものなのではないだろうか。
『ハイライト』
何でアゴラ劇場でなければならないのか。作家の悪ふざけが程よく機能していれば面白いのだと思うのだが、どうも楽しめず、入り込めなかった。出演する俳優を想定して書かれていて、上演されたものは観ているときは楽しめるものになったのだろうが、心に残る演劇になれたかと言えば、物足りないと思う。何で仙台なのか。東京2020オリンピックでの圧死事故で、東京が崩壊するという設定にも説得力や必然性を感じられず、面白がれなかった。
個人的に気になった作品の順に雑感を述べさせてもらう。
まず優秀賞となった『Share シェア』は登場人物のキャラクターも書き分けられているし、会話が自然でいい。関西弁もいやらしくなく響いているし、シェアハウスにいる住人たちの滲み出ている人情も読んでいてとても幸せな気持ちにさせられる。私はこの作品を一番に推した。しかし大賞には至らず、それに納得もしている。上手に書けてはいるけれど、作品が勝手に歩き出すような、そうした迫力を獲得できていない気がするからだ。これは完全なウェルメイドコメディではない。群像劇としてそれぞれの登場人物が描かれながら、早希と、故人である香織が物語の主軸になっている。この軸が弱いのがもったいない。加害者ではないのに憎しみを抱くという構造はとても面白かったのだが、他のエピソードに隠され、このドラマが広がらないのが致命傷だと思った。
同じく優秀賞である『さなぎ』は時差の違う二つの場所で展開するというのが発明だと思った。年を越す時に生じる四時間の差、初日の出を待つまでの夜と朝の間、そうした中途半端な時間とさなぎである状態がリンクしている。また、わざわざ露悪的に登場人物たちに不幸を背負わせることをせず、それでいて生きていることへの歯痒さを感じさせていることにも好感を持った。ただ、LINEというツールの扱いが陳腐だったのと、物語の触媒となるハナが描ききれていないことに不満が残った。
『さよなら、サンカク』は書き慣れているなという印象を持った。最後まで飽きることなく読み進められるのだが、光の当て方が曖昧だと思った。明子と母、正輝とその母、それぞれの親子の関係性に焦点を当てているのか、それとも監禁されている明子の話なのか。私としては監禁から出て来た後の、明子と幸子の話に特化させた話を読みたいと感じた。設定が設定であるので劇的ではあるし、上演すれば迫力のある舞台になることは想像できる。ただ、実際にこうした事件があることを考えても、扱うのであれば題材にするだけでなく、作者自身の痛点を感じたかった。
『あいがけ』は家の縁側で交わされる会話から、人生の悲哀を感じさせる作品だったが、敬子がアニに心を開いて行く過程をもっと丁寧に描いて欲しかった。また、背景となる真帆や別れた妻の情報の出し入れを考えて欲しい。
『私 ミープ・ヒースの物語』は単純に足りないのは差し引く技術だと思う。史実をもとにしている分、色々と書きたくなる気持ちは理解できるが、例えばミープとラウラの関係に力点を置いてみるなど、「どこを描けば広がるのか」を考えてくれるとよかったと思う。ミクロを書いてマクロを描くというか、全体を俯瞰せずに書くからこそ人の想像力を刺激するという、演劇の魅力を信じてみて欲しい。
『ハイライト』は冒頭、安全太郎と結婚したいという始まりこそ面白かったが、それ以降のイメージの広がりに熱量がなくなってしまった。言葉のチョイスなどは面白いのだが、ラストに向けて話がうねっていかなかった。
『須磨浦旅行譚』はロードムービーを見ているようだった。ただ、普段、ドラマをベースに書いている私にとってはあまりに情報が分かりにく過ぎた。死んだカナコ、その人が好きだった藤くんに会いに行くということにはなっているのだが、読んでいる限りその背景も理解できない。それでいいという審査員もいたけれど、私は肯首できなかった。松田さんという他人が一緒に行くきっかけなどは、すっ飛ばさずに一応の工夫をしていることから判断しても、他の部分に関しても何かしらのアイデアが必要だったのではないかと思う。
『害悪』はSF的世界をリアリティのある形で描くのであれば、その世界で生きる三姉妹からの視点にした方がいいと思う。「私」のところでも書いたけれど、こうした世界をこれだけの登場人物で外側から書くことには無理があり過ぎると感じる。
今回、大賞を出す出さないに端を発して、審査員の中で戯曲賞のあり方について議論になった。うまく書かれたものが評価されるのか、荒削りでも熱量の高いものが評価されるのか。審査員個々の考え方にもよるけれど、これはとても難しい問題だ。
最後になりましたが……霧島ロックさん、本橋龍さん、おめでとうございました!
全体的に決定打のない印象だった。
驚いたのは、とにかく登場人物の多くに覇気がない。日々の生活に押し流されて行く中で、どうにかうっすらとした自分の視点を掴もうというようなものが多かった。それが悪いわけでなはない。生活とは時にそういうものであろう。しかしあまりに誰も彼もが浮遊している印象に戸惑った。喪失感なのか岐路なのか自分探しなのかわからないが、労働者が極めて少なかった。
優秀賞に『Share シェア』と『さなぎ』が決まったが、私は大賞・優秀賞共に該当作品なしと提案した。
『Share シェア』は全体的な構成が上手く、キャラクターもそれぞれ魅力的で、関西弁の応酬も愉快、大変読みやすかった。半年前に事故で亡くなった親友・香織の登場なども自然で、主人公・早希の心象を広げる。だが、早希が間接的原因となって娘を亡くしてしまった香織も、その後事故死してしまっているという設定に違和感が。この悲劇の重なりはかなり特殊で且つ深刻な傷を主人公に与えるはずである。香織さえもが死んでいるという複雑な状況をもっと描いて欲しかった。全体的なバランス感覚は優れていると思うので、今後、大いに骨太のウェルメイド作品を生み出して欲しい。
『さなぎ』は正確に読みきれなかった。前田司郎氏の見事な解説を聞いて、なるほどそういう風にも読むことが出来るのかもしれないと納得したというのが事実である。私には、記憶や時間が溶け合う描写が詩情となって輝かず、あるカップルに纏わる人物たちの、とりとめのない年の瀬が過ぎてゆくばかりに感じられた。それぞれのエピソードに魅力はあり、またダイアローグのリズムも楽しめる。終幕、異国で出会ったハナがシーツの中から文字通り孵化するように目を覚まし、この世界にある時間の区切りというのは実は存在しておらず、ただ夜と朝があるだけだと語り、シーツから孵化して今日を生きようと決意する。このモノローグが腑に落ちなかった。これまでの家族や旅行の風景と繋がらないまま終わってしまった。何れにしても昨年の『転職生』に比べると物足りず、優秀賞に推さなかった。様々なピースが集約していく描き方は魅力だ。この茫洋とした世界をもうちょっと広げられたら前作以上の作品になったのではないか。視野の広さに対して今作の扱う世界が狭い気がしたのだ。それぞれの抱える問題の大小ではなく。今作の受賞をきっかけに、本橋氏には新たなる地での活躍を期待したい。
『ハイライト』は設定がぼやけていた。主人公の交通誘導ロボット安全太郎への愛の根拠を始めとして、どの登場人物も輪郭が見えなかった。手近の空間、手近の俳優、手近の表現の中に収まってしまっていないか。奇抜な発想を劇化する力があると思うので、現実的制約を飛び出すような劇作を期待してしまう。
『さよなら、サンカク』。構成は明瞭で、人物もそれぞれ役割を全うしていた。少女を誘拐し5年間監禁・強姦していた男の部屋の鍵はかけられず、ずうっと開いており、加害者の家族もそこに生活していた。その加害者家族の覚醒により、どうにか逃げ出し帰宅するも、家では母親がすでに娘の帰りを諦めていたのか、同級生の父親と不倫まがいの関係に陥っていたゆえ、ああ帰ってこなければ良かったと思う被害者。読み終えて、不快感がの方が勝るのは、寓意性の欠如、あるいは取材、またはその取材内容の活用が不足しているからではないか。主人公を二分割する以上のアイデアの飛躍が欲しかった。
『害悪』は設定されている戦争の仕組みに入っていけなかった。審査会でも話題になったが、数少ない登場人物が、国策の根幹を左右するような立場にあり、SF劇にしても流石に無理があった。上演は見てみたいと思った。
『あいがけ』はマレーシア人の若い女性アニが、本国の水害で父親を失っているという境遇が最後の最後に明かされるという構成に戯曲としての弱さを感じた。そうした境遇が明らかになってからの対話を読みたかった。
『須磨浦旅行譚』は友達の死を、あるいは忘れるということを、主人公のわたしが友人と知らないおじさんの松田さんと共にやたらと蛇行しながらゆっくりと消化していく。会話ってこんなものなのだよなというところはいい。ただあまり印象に残らなかった。なんとなくこういう筆致に行き着いたのか、それとも確信的なのか。次の作品が気にかかる。
『私 ミープ・ヒースの話』。伝記の域を越えていないという批評は充分に頷けるけれど、歴史的事実から現代を映し出そうという熱意は感じられ好感を持った。確かに正義を貫き通したミープ・ヒースを額面通り称えているという印象は残る。だが作者は時勢に流され反ユダヤ主義に加担したテオとラウラのような市民を頭ごなしに批難することは出来ないという視点に重きを置こうと試みている。終戦後リンチを受けて寝たきりとなり病室に横たわるラウラに、終戦して二十年経ってミープが再会する場面。ラウラは「私は正しかった」と伝える。作者はここを描きたかったのではないか。九十九歳となったミープに回想させるという構成も、戦中戦後現在までも見つめる鳥瞰となり得た。冗長なミープの語りを大幅に切り詰める必要はある。正義とは何か、そして人間の弱さ・愚かさに肉薄し、引き続きこの戯曲を会話劇としてブラッシュアップさせて欲しい。
今回は大賞が出なかった。全ての作品に対する意見交換を終えた時点で誰もが「大賞はないな」と思っていたことが判明し、長塚さんから「優秀賞すら出さない方がいいのでは」という提言があった。
その理由に関して僕が代弁するのもおかしいので書かないが、北海道戯曲賞全体のことを考えての筋の通った提言であり、僕もその方がいいかもしれないと一旦は思った。しかし「Share シェア」「さなぎ」「須磨浦旅行譚」の三作は、僕の中での審査基準に則って、充分に優秀賞に値すると思ったので、優秀賞を出すか否か決を採ったとき、優秀賞を出すことに手を挙げ、結果過半の賛同をもって優秀賞を出すことになった。
なぜ議論が、優秀賞を出す出さないの話にまでなったのか、舌足らずながら、ざっくり説明させてもらうと以下のような理由だと僕は解釈している。
大賞受賞歴のある作家が二人も最終候補に残る戯曲賞は珍しく、とても面白いが、審査員としては非常に難しい。今年度の候補作8本を縦断的に評価する軸と、過去の受賞作と今回の候補作を横断的に見る軸が、同時に、しかも少し絡まったような状態で存在することになるからだ。
たとえば「さなぎ」を審査するとき、どうしても同じ本橋くんの過去の作品「転職生」「動くもの」と比べてしまう。できるだけ前後を切り離し、今作だけで見ようとするが、バイアスはかかってしまう。
この点に関しては、大賞受賞者は応募できないように規約を変えてもいいのではないかという提言をしておいた。「やめた方がいい」と強めに言えないのは、審査員である僕の範疇を超えているからであって、決断は財団の皆さんがされると思う。どちらにしても僕はその決断を支持する。
それは北海道戯曲賞をどういった戯曲賞にするべきなのか、そしてそれを考えるべきは誰なのか。という問題でもあり、審査委員の間でも毎回議論が起こる。
優秀賞を出すべきか否かも、そういう文脈で議題にあがった。北海道戯曲賞がどのような戯曲賞になっていくかに関しては、回数を積み上げていくしかないと思っている。
ただ、北海道戯曲賞は作品を、それを作り上げた才能を、審査員の矜持にかけて評価していく賞になって欲しいと個人的には思っているので、僕はひとまずその方針で今年も審査することとした。
例によって言い訳しておくが、僕は作家で、評論家ではないので、時代を映しているどうのとか、作劇の歴史的文脈に照らしてどうのとか、そういうのには興味もないし、全く判らないので、「才能があるか」「技術が高いか」の二つの軸で勝手に評価している。その二つは不可分であり、互いに補い合う関係であり、かつ、足を引っ張りあう関係でもある。最終的にはその二つの軸の関わり合いがもたらした結果に照らして判断することにしている。そこには僕個人の趣味も反映していて、巧みなものよりも、稚拙だが才能を感じるものの方をより評価している。稚拙さにこそ作者の本質が見えるような気もするから。
以下、候補作について、思ったことをつらつら書いていく。僕の個人的な基準に照らして、評価の高い順に書く。が、読まなくても大丈夫です。他人の言うこと聞いて面白い芝居を書けるようになるなら、みんななってるもんね。結局は内なる自分の意見に正しく耳を傾けられる人だけが、成長できると、僕自身信じているので、他人の意見は話半分にきいて、自分が本当に作りたいものを作ってください。
『さなぎ』面白かった。言葉にならないことを無理に言葉にせず、そのまま書こうとしているようで好きだった。
審査するにあたって、余計な偏りを防ぐため、作者のプロフィールを見ずに作品を読むようにしているが、全ての評価をし終えて、作者が本橋君と知り、イラっとした。ト書きに「仮泊を云々」とあるが、仮泊ってなんだよ。科白を「かはく」と読んでいて、字面を忘れてパソコンで打ったら最初に仮泊が出てきたに違いない。誰か教えてやれよ。
本橋くんへ。もう才能があるか世に問う時期は終わった。才能をもった者として次にどうするかを考える時期なのかも。
僕も20代の頃は自分に才能があるのか試したく、何より自分自身に、自分の才能を認めてもらうために書いた。その時は必死でやるだけだから、ある意味楽だった。自分に才能があると認めてからは「才能があるんだからこれくらい書けて当たり前。で? どうすんの?」という悩みがずっとある。今もある。前ほど楽しくない。本橋君もそろそろそういう時期にはいるんじゃないか。がんばれ。
『須磨浦旅行譚』戯曲より、上演の方が面白くなりそう。何か起こりそうで起こらないストレスがある。もっと言いたいことを漂わせる感じがよかった。大事なことを結構しゃべっちゃってる。例えば松田さんがカナコでもあることとか。
でも結構好き。
才能を感じた。僕は優秀賞として推したが、強く推せなかった。「これは上演すれば本当に面白い戯曲なんだ」と断言できなかったのは演出家としての僕の能力に問題があるのかもしれない。
作家として思ったのは、三人の旅の楽しさを、その雰囲気を、客席まで包み込むほど侵食させる装置が何か必要だったのではと思った。積極的に中に入ってきてくれる観客が見たら、まるで一緒に旅をしたような幸せな体験になるだろうが、その気のない客や、その方法がわからない客には、どうやって見ていいか判らないのでは、と思った。
そこを役者や演出に任せるのも一つの方法だし、全然それで良いと思うが、作家の野心としては戯曲の時点でそれを感じさせたい。
『Share シェア』本作に関しては全員が優秀であると認めた。僕も、とてもよくできていると思った。吉本新喜劇の構造そっくりだと感じたが半関西人の土田さんによってそれは否定されたけど。最後まで楽しく読んだ。
しかし、誰もが認める良い作品であるところが、本作の弱点であると思う。普通に面白い。嫌なところもない。ただすべての感情が理屈で割り切れている気がする。説明されて納得できてしまう。大賞に推すことはしなかった。稚拙さ、いびつさ、偏り、そういった部分に作家の生の部分がでるのじゃないだろうか。それが見たかった。作者自身もコントロールできない何かが、戯曲には必要じゃないだろうか。
『さよなら、サンカク』良く書けていて面白いけど好きじゃない。具体的過ぎて小さくなっちゃってるような。突っ込みどころも多い。
悲劇に酔ったような雰囲気をそこはかとなく感じ、それが嫌なのかも。
作家には想像力が必要だ。それは専ら、自らの想像力の限界を想像するために用いるべきだと思う。
登場人物の身に起きた悲劇を、どこまで想像できていたのだろうか。疑問が残った。
『あいがけ』ひねくれた中年男、ケンケンした中年女、純真なイスラム教徒の女性。最初に作ったキャラクター設定で人物が出来上がってしまったかのような印象。登場人物が作者の掌の上から出ていない。戯曲の中で作者にもつかみきれない人物を、演出家と俳優が稽古場で探していくのが良いように思う。戯曲の中で、作者に完全に理解されているようでは足りないと思う。
とはいえ、嫌みなく、優しく、好感を持った。あいがけの言葉の意味がわからなかった。お互い、相手に、父をみたり、娘をみたりしたことかな。だとしたらあまり良いタイトルの選択ではないと思う。舞台用語としての「あいがけ」だとするなら、一般の観客に対して閉じられた印象を与える。一般の用語としての「あいがけ」は丼などに複数の具をかけることらしい。辞書で調べました。
『ハイライト』初対面の人としゃべりすぎ。バカを理由に作者の都合を通してはダメ。状況に関する最初のワンアイディアでやっている印象。人物の関係や、人そのものが書けていないと思う。そんなこと文字に書くことじゃないけど、匂ってこない。
何か気負いのようなものが、枷になって、飛躍が出来ていなかったように思う。
前作と比較するのはアンフェアだと思うので、選考の場では控えたが、ここに書かせてもらうと、前作「バージン・ブルース」での飛躍は、時々作者もついていけていないような危なっかしさとスリルを感じ、読み手としてはどこに連れていかれるかわからない興奮があったが、今作にはそれを感じなかった。理屈の範疇での飛躍にとどまっていた印象がある。頭で書きすぎたんじゃないだろうか。
気負うとどうしても、沢山考えて、頑張って書いてしまうが、頑張れば頑張るほど、よくない結果を生むような嫌な仕組みが作劇にはあると思う。
自分の才能を信じてもっと野放図に書いて欲しいと個人的には思う。
『私 ミープ・ヒースの物語』史実に基づき実際の人物を登場させているからだろうが、人物の表層しかみえない。まるで小学校のころ図書室で読んだ伝記漫画の人物像しか見えてこない。戯曲にする意味は、その内奥を描くことでは? ミープよりもテオやラウラの物語が見たかった。
この作品を世に出すことに社会的な意義があるという意見もあった。私見だが、ナチと戦った英雄をたたえる時期は終わったように思う。もう終わりにしないといけないと思う。ナチズムを敵とし、理解し得ないよそ者、話の通じない怪物のように扱って、自分たちから距離を置くべきではないと思う。市井の善良な人々がなぜ危険な思想に染まってしまったのか、自分たちの中にもその芽があることを認め、どう克服するかを考えるべき時期に来てるのではないだろうか。本作では、そこに踏み込めそうなチャンスもあったが、逸してしまっていたように思った。
『害悪』大枠の設定に現実味を感じられない。「そんなことないだろ、でもあるかも知れない」と思わせてほしかった。作者の都合で作られた設定のように思えた。
大きな世界の問題を書かなくてもいい。身の丈にあったものでいい。と、僕は思う。社会の問題を扱ったことで評価されたりもするが、本当にそんな評価が欲しいのか? もしそれが欲しいなら芝居が一番の方法だろうか? その点でニュースやドキュメンタリーの手法にまさっているのか?
自分が見たいもの、作りたいものはなんのなのか考えて、自分が無理せず書ける範囲で書いていくのが良いと思う。
もっと身近で手の届く範囲のものを書いたら面白い作品を書ける才能がある作者だという予感があったので余計なアドバイスをしました。
1990年生まれ。さいたま市出身。高校の部活にて演劇を始める。
その後入学した尚美学園大学で演劇を学ぶが、2013年に大学を中退。実家から家出し、そこから自身の創作ユニット「栗☆兎ズ」で劇作活動を本格的に始める。2016年、江古田に居住し活動の拠点である「栗☆兎ズ荘」(木造二階建ての一軒家。後のウンゲ荘)を構える。8回の演劇公演を経て、ユニット名をウンゲツィーファに改名。
上演作品『動く物』が平成29年度北海道戯曲賞にて大賞を受賞。
創作の特徴はリアリティのある日常描写と意識下にある幻象を、演劇であることを俯瞰した表現でシームレスに行き来することで独自の生々しさと煌めきを孕んだ「青年(ヤング)童話」として仕立てること。
大学在学時に演劇部に所属。役者として活動を始める。地元の関西から東京に居を移した後は、小劇場を中心に舞台出演を重ね、2005年「ここかしこの風」の旗揚げ公演に参加し、以降ほぼ全作品に出演。
2015年より、役者のみならず、作・演出も担当するようになり、2019年に「ここかしこの風」から「ここ風」に改名した現在も、同団体の活動を基軸に、他団体への客演も積極的に行っている。
所属事務所エクリュでは、主にCMナレーション他、映像作品など、役者として舞台以外の方面でも、多く活動している
募集期間 | 平成30年7月17日~9月21日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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応募数 | 120作品(新規78作品) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年齢別 |
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都道府県別 |
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桑原 裕子 | (劇作家・演出家・俳優/KAKUTA 主宰) |
斎藤 歩 | (札幌座チーフディレクター) |
土田 英生 | (MONO代表) |
長塚 圭史 | (作家・演出家・俳優/阿佐ヶ谷スパイダース主宰) |
前田 司郎 | (劇団五反田団主宰) |
大賞 | 『バージン・ブルース』 | 大池 容子 | |
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優秀賞 | 『酒乱お雪』 | 伸 由樹生 | |
『転職生』 | 本橋 龍 | ||
最終選考作品 | 『酒乱お雪』 | 伸 由樹生 | (神奈川県) |
『小説家の檻』 | 斜田 章大 | (愛知県) | |
『新在り処』 | 相馬 杜宇 | (神奈川県) | |
『チキン南蛮の日々』 | 國吉 咲貴 | (埼玉県) | |
『転職生』 | 本橋 龍 | (東京都) | |
『バージン・ブルース』 | 大池 容子 | (東京都) | |
『はるまつあきふゆ』 | 松岡 伸哉 | (福岡県) | |
『ほたる-ふたりの女優のために』 | キタモトマサヤ | (大阪府) |
この度初めて北海道戯曲賞の審査に参加しました。戯曲を読む力というものが自分にあるのだろうか、審査する側に立って良いのかと恐縮しつつも、それはいつでも、どの審査員の皆さんも等しく抱える葛藤であろうと思い、開き直って臨みました。
独自の着眼に富んだ内容や、オーソドックスながらも丁寧に書き込まれているもの、中には超力作で読むのに苦労する作品もありましたが、それぞれに面白く読みました。
大賞が決まらない年もあると聞いていた北海道戯曲賞、毎年これほど高い水準の作品が揃うのかと驚いたのですが、今年は例年以上に充実したラインナップだったそうです。ゆえに審議会では審査員が各々違う作品を推すところから始まり、豊かに意見が交わされる有意義な時間を過ごすことができました。
『酒乱お雪』
とにかくすさまじい筆力と分量! A4紙面にぎっしりと書き込まれた望郷のたぎり、には辟易しつつも圧倒され、感心しながらうんざりもし、長引く高熱にうなされるような感覚で読破するのになかなかの体力を要しました。でも、作者の年齢でこれほど知識や情報を持って描けること、またその情熱に胸を打たれてしまいました。そして、俳優ならば思わず口に出してみたくなる不思議で魅力的な台詞や、いくつかの迫力あるシーンにときめきました。それでも土地や星や鉄道の解説がしつこすぎやしまいかと思いますし、机上では成立しているけれど、実際に上演するにあたって俳優の体を通したときにどうか、という想像はどこか別の場所においてきている気もします。
勇気を持って刈り込み、もう少し整理した上で一度上演してみるとまた見えてくるものがあるのではと思う一方、整理なんてくそ食らえとこの勢いで書き続けてほしい気もします。とにかく、この熱をぶつけた新作を描いて、ぜひまた読ませてほしいです。
『小説家の檻』
うっかり最初に「小説家の鑑」と読み、長らく勘違いしながら拝読していたのですが、後で思えばどちらも皮肉に成立するような、檻に囲われた小説家の鑑の物語。「究極の本を一冊作れば誰も他の本を読まなくなる」というような裏地の主張に「え?そうかな」と冒頭からノレなかった感はあるものの、展開するリズムの心地よさ、次へ次へと興味を引くストーリーテリングに力があり、飽きずに読み進みました。それにしても人が都合よく死にすぎなのと、登場人物が類型的で薄っぺらく感じてしまった点は、「AIが描いたから」というオチで納得すべきなのでしょうか。
どこかにAIが到達し得ない人間の生身を、ずっと探して読んでしまいました。
『新在り処』は、片麻痺の空き巣泥棒という設定にまず惹かれ、どうその体が物語に影響してくるのかを気にして読んでいましたが、そこが生きていたかというと、さほど重要な要素に思えなかったという印象です。
騙されたふりをして他人を息子として迎え入れる老婆と、いつしかその態にのっかり心を許していく男のやりとり、特にラストシーンは胸をつかまれる切なさがありました。ただ、化かし合いが行き過ぎているのか、お互いの嘘をあまりにも違和感なく請け負ってしまうので、「嘘の中にある真の気持ち」を探すお話なのに、本来の設定がぼやけてしまい、余計に迷子にさせられてしまった気がします。
『チキン南蛮の日々』
チキン南蛮の霊が摂食障害の少女を救うというのは、かなり奇をてらった設定に見えて、実は人よりも動物よりも、自分の体から吐き戻された食物の方がまだ自分をわかってくれるかも・・・というのが、作者のものすごい絶望から来ている発想だなと思い、その哀しみと恐怖に震えながら読みました。ところがそんな奇妙な設定ならではの可笑しさが随所にあふれているので何度もぷっと吹き出し、最後はチキン南蛮が降霊テクでばかばかしくも切ない東野圭吾『秘密』ばりの感動を呼び起こして、(ちょうど読んでいる頃チキン南蛮が名物の宮崎県にいたのもあって)おいしいチキン南蛮を食べて成仏させたくなる、愛しい読後感がありました。
私は候補作の中でこれがいちばん「好き」な作品でしたが、本だけで充分楽しめ、小説にしても良さそうで、脳内で広がる景色の方がもしかすれば舞台に乗ったときより面白いのではと感じてしまったところで、戯曲賞のいちばんとして強く推すことにためらってしまいました。でも、とても面白かった。
『ほたる ふたりの女優のために』
取り残されてしまった女二人の、関西弁ならではのどこか諦めた明るさが漂うやりとりには、ひたひたと川の水が満ちてゆくような寂しさがあり、染みるものがありました。
変わらぬ風景の中で二人の距離だけが徐々に近づいていく様子も心地よく、また美しく見てとれたのですが、「私大嘘つきや」と先の展開を匂わせる台詞があることで、その先に大きなどんでんがえしなぞを期待して読んでしまっただけに、結末はやや物足りなさがありました。ささやかな思いの揺れは魅力的に描かれているので、むしろそのような「匂わせ」を置かずとも、充分に惹きつけられたように思います。
『はるまつあきふゆ』
ありふれた設定ながら細やかな心の行き違いが会話で描かれており、また時代の交差も練られて描かれていて、好感を持って読みました。ただどうしても引っかかったのが、子供時代に両親を亡くしたことがなぜ20代の今、怠惰に生きる理由になっているのかという点で、母の日記を見つけるまでに長い時が経っているのに、その部分が空白に見えてしまったことでした。日記を見つけ、母を知ることで自分自身を見つけるという物語を置くために、作者が登場人物たちの人生に流れる「時間」を都合よく抜き取ってしまった気がします。その抜けた部分にこそ豊かな時の流れを感じられたら、この作品はもっと光を放つのではないでしょうか。
『転職生』
名前の覚えづらさと、最初のキャスト紹介に性別表記がなかったこと、男女の描き分けが後半になるまでわかりづらいこと(それ自体は別に良いと思うのですが)から、誰が誰なのかを判別するまでにだいぶ時間がかかってしまい、何度も行ったり来たりして読む作業が少々つらかったのです。ただそれは、舞台で見ればすぐにわかることかと後で思い至りました。
退屈に見える彼らのルーティンワークと、ベルトコンベアを流れるように三カ所の空間を行き来する人々の流れを重ねながら、個々の関係性が見えてくると徐々に面白くなりました。はじめは淡々とした無個性に思えるやりとりも実は細かく描き分けされており、低体温で進んできた時間が「新しき風」の存在によってうねりだすのが、いい。
そのうねりに行き着くまで、芝居を見る人が彼/彼女らに対し興味を持続できるかというところで、序盤につかみがほしい気はしますが、戦略を匂わせず狙いを捉えて描ききる、力のある作家だと感じました。
『バージン・ブルース』
LGBTをテーマにしたいわゆるモダン・ファミリーのアットホームな話かと思わせておいて、めまぐるしい走馬燈から時をさかのぼる旅が始まり、ジェンダーも激しく入り乱れて思いがけぬ場所へ連れて行かれる時間は、愉しいものでした。登場人物たちの持つ体のビジュアルを想像すると生理的にうろたえてしまう感覚はありますし、その挑発的な台詞のいくつかは物議を醸すかもしれないと思います。ただ、どの性に対してもあえて等しく差別的に描く、という作者の挑戦を感じ、また個々のキャラクターの愛らしさは最後まで失われておらず、彼らに幸あれ、と思いながら人生を追いかけることができました。
彼らが自虐と挑発を込め「化け物」「出来損ない」と自らを呼ぶのもわかるのですが、そこまでその言葉を繰り返し投げかけるのであれば、哲学部出身の彼らなりに、この言葉の行き着く独自の終着地をもうひとつ掘ってほしかった気はします。
読んでも面白いし、この舞台を観てみたいと強く感じたので、今作を大賞に推しました。
北海道戯曲賞で大賞と優秀賞2本が出たのは初めてだとか。それだけ力がある戯曲が集まったということは、今戯曲賞においても、演劇の未来にとっても、同じフィールドに身を置く私自身にとっても刺激的で、幸福なことだと感じます。皆様、おめでとうございます。
全体として
私はこの戯曲賞の審査員を引き受けて5年目になるのだと思います。今回は前年までと比べて、最終審査に残った8作品のレベルが上がっていたように感じました。前回までは「これが大賞になるんだろうなぁ」とか「大賞はないんじゃないかな?」と感じたまま審査会に臨み、ほぼその通りの結果となっていたように記憶しています。
ところが、今回は事前審査で初めて「A」と記入できる作品に出会え、しかも、他の審査員とは明らかに意見が違うだろうなぁと「今回は初めて意見が割れるのではないか」と予想し、その通りの最終審査会となり、とても楽しかったです。
好き・嫌いの話にまで至り、最後の決戦投票も票が僅差で割れたのは初めてではなかったでしょうか。特に、「きっと皆は推さないだろうなぁ」と私が予想した『酒乱お雪』を最終審査会に挙げてくれた下読み担当の皆さんには感謝します。
『酒乱お雪』
実に荒っぽく、懐かしい匂いのする戯曲ですが、並々ならぬエネルギーと遊び心、そして貪欲な知的好奇心を感じ、惹かれました。近年、等身大の台詞が多い中、こういう戯曲が欲しいと感じていたまさにストライクゾーンに来た戯曲でした。今、このような戯曲を上演しようとしても長台詞を吐き続ける身体性を現代の俳優が伴えるか疑問ですが、本当に好きな戯曲でした。最初、時系列が無茶苦茶だなぁと感じながら読み始めたのに、すぐに引き込まれました。私は演劇には「ケレン味」が欲しいと思っています。近年そうした新作になかなか出会えることがなく、ケレン味だらけのこの戯曲が素敵でした。「ケレン味」だけでなく、東北出身の小説家・詩人たちの引用も的確で、「長い」という審査員が多かったのですが、私は一気に読み進められました。確かに、構成が下手だったり不要なセリフや場面が満載で、手直しが必要な部分も多いと思うのですが、今回の8作の中では今後の伸びしろが期待できる唯一の作家だと感じ、5年間北海道戯曲賞の審査員を続けさせていただいてますが、初めて「A」という評価をつけて最終審査会に臨みました。審査後に、まだこの作家が若く、経験もほとんどないという話を聞いて、さらに楽しみになった作家でした。こういう作品に大賞を出す戯曲賞が北海道にあってもいいのではないかと、私は思うのですが、私以外の審査員の共感は得られませんでした。それも納得はしています。確かに粗すぎる。でも本当にうれしかったです。それにしてもタイトルはもっと工夫が欲しいです。
『小説家の檻』
ゴーストライターとAIというアイデアによるプロットだけで書かれた戯曲のように感じて、それ以外に面白みを感じることができませんでした。「究極の本を読めばそれ以外に本は不要になる」とか、「本は人を殺せる」という理屈に今一つ共感できず、テレビ局という社会装置を都合よく、しかも安易に配置していたり、出版社の前のバス停で偶然ゴーストライターに出会ったり、「きいろいくも」という本が裏地の父の作品だったとか、都合が良すぎるように感じました。
『新在り処』
この作品、開演してすぐに観客に「男」が空き巣だとわかるだろうか?台詞も設定もあまりいいとは思えませんでした。この男に脳疾患から来た「麻痺」を伴わせる必要があるのだろうか?という疑問も残りました。作家が「麻痺」を伴って生きることの困難さを表したかったのでしょうか。ちょっとよくわかりませんでした。すいません。
『チキン南蛮の日々』
この作品を推す審査員が複数名いましたが、私は魅かれませんでした。「チキン南蛮の地縛霊」という突飛なアイデアや、ピースケというインコが関西弁を覚えて帰ってくるという設定など、面白い部分もあるのですが、短編のプロットとしては成立しそうな気もしますが、本編戯曲としては物足りず、最後まで審査に残ったのですが、私は他の作品の方に票を投じました。
『転職生』
まず、人物名が覚えづらく読むのに苦心し、三か所に誰がいて誰がいないのかという表まで作って読み、「あ、この人は女性だったのか!」と気づいては読み直したりしました。社員・アルバイト、被雇用者としてしか生きられない現代の若者の閉塞感を描いているのか、東京のような都市で演劇を志す者たちの生態をそこに持ち出して、おそらく作家の実体験がもとになっているように読めるのですが、私には作家の視座とは異なる他者の視座も必要ではないか?と感じてしまうのです。確かに上手く構成されていて達者だなぁとは思い、最後の最後まで強く推す審査員も居ましたが、私は手を挙げませんでした。もっと変なものをこの作家には期待してしまいます。
『バージン・ブルース』
力のある作家だと感じました。面白く読めました。達者で才気もあり、実に面白いのですが、何か引っかかっていました。何が不満なのか判然としないまま、この作品にだけ「B」という判定をつけて審査会に臨みました。審査員との議論の中で、判然としないものが少し見えた気にもなり、やはり、台詞や場面展開の巧みさなどは他の7作品と比べると圧倒的であったため、最終的に大賞となったことにも納得がいっていますが、もう好き嫌いの問題なのかもしれません。オッパイとかおちんちんとか、人と異なった個性に対するコンプレックスが性の部分にのみ突出していたことが気に食わないのかもしれません。
『はるまつあきふゆ』
かなり早い段階で「波留」が「夏生」の実母で、「冬美」が叔母であるとわかったのですが、それが露になる過程が実にじれったく感じて、複雑に入り組ませる必要があったのだろうか?と感じました。それが例えシンプルになったとしても、あまり面白みを感じませんでした。
『ほたる ふたりの女優のために』
二人の女優のために、というタイトルにある通り、二人の女優を魅力的に見せようとしたのかわかりませんが、予定調和だらけに感じました。善人ふたりが慰めあう構図で、驚きがないんです。ほのぼのとしたムードの中にあっても、人間の具体的な毒とか嘘とか、ある年齢になった女性にはあるのではないかと思うのですが。
大池容子さんの『バージン・ブルース』が大賞になった。おめでとうございます。読み始めてすぐに言葉選びのセンスを感じ何度も笑った。ラスト、回収の仕方にやや不満は感じたけれどそれもそこまで大きな問題ではない。私が審査会の時に最後までこだわったのが「性器が伸びていく」「きれいなおっぱいを持っている」など、この作品の中で描かれている「出来損ない」たちが、性にまつわるものに偏ってしまっている気がして、そうした設定が突き抜けたフィクションとして成立するところまでいっていないのではないかということだった。他の審査員メンバーからの説得で納得はしたものの、読み返してみるとそこに関してはやはり引っ掛かりは感じる。
昨年の受賞者である本橋龍さんの『転職生』は、また去年の『動く物』とは全く趣の違った群像劇だった。さらに本人の体験などもあるのか、ディディールや台詞にしっかりと体重が乗っていて迫力があった。群像を描きながらも物語に軸は用意されていて、イナサとアサゴチの恋愛もよかったし、特にイナサの「ヨアラシくん殴っていいよ」という台詞には不覚にも泣かされた。
伸由樹生さんの『酒乱お雪』については、審査会が最も盛り上がった時間だった。まだ全体の構成も荒く、無駄な台詞や説明も多い。これをそのまま上演するのはかなりハードルは高いだろう。しかし、とにかく作者が書いている時の勢いや想いが全編に溢れていた。東北という地域をあえて一つの概念にまで昇華させ、その《東北》が背負わされてきたもの、担ってきたものを、かつては東北からの玄関口であった上野の変遷まで含めて描いている。これからもっと書いていってもらいたいと思った。
そして、私が最も推したのは國吉咲貴さんの『チキン南蛮の日々』だった。まず、《笑い》としてとにかく面白かった。ピースケという荒唐無稽な設定を据えつつも、加奈子という人物がとてもよく分かるという気がした。その加奈子がハマる佐山くんのクズぶりも、ピースケの奔放ぶりも配置としていいし、何より無償の愛を注ぐチキン南蛮と、一見ハッピーエンドに見えて解決していない辛さも含めて私はとてもいいと思った。
斜田章大さんの『小説家の檻』は設定はとてもいいし丁寧に描かれていると思うのだけど、そもそもの人物設定や物語が、やや説得力に欠けている。物語を読むと吐いてしまう裏地のモチベーションに納得ができず、究極の本をつくればその本以外誰も読まなくなるという論理もそのまま受け入れられなかった。もっと登場人物の背景をしっかり作り込むといいのではないかと思う。
松岡伸哉さんの『はるまつあきふゆ』は読みやすい作品ではあった。台詞も自然で、描写も上手だと思うし、時間軸の違う家族が重なり合うように展開するのもいい。ただ、見つけた日記で本当の母に出会うというには、そこに事情がなさすぎた。
相馬杜宇さんの『新在り処』はややもどかしさの残る作品だった。空き巣である男が認知症である老婆に息子と間違えられるという落語のような設定はいいと思うけど、ドラマポイントが明確ではない。老婆との関係を通しての男の変化や、老婆が最後まで男を本当に息子だと思っていたのか、もしくは勘違いだとわかりつつも泊まって欲しかったのか、物語の軸となるポイントが見えないのがもったいなかった。男が息子の振りをする前半の笑えるはずのシーンも、もう一工夫あってもいい。
キタモトマサヤさんの『ほたるーふたりの女優のために』は、これから何が始まるのかと期待させるオープニングもいいし、二人の中年女性が抱える寂しさは心に沁みる。ただ、二人の関係の変化をもっと見たかった。最初からある程度の和解が感じられてしまっていたり、(シーン2)の最後でアズミが「・・・そうや、ワタシ大ウソつきや」(実際の台本では「大ウシつき」となっていて、ワザとだとしたら私には意味が理解できていないけど)という台詞で、期待してしまったほどの事情が後で出てこないことなどがもったいなかった。
私なぞが戯曲を審査するなどということは大変烏滸がましいようにも思いましたが、二十年以上演劇に携わってきた者として、純粋に演劇として奥行きを持って立ち上げる喜びを頼りに審査しました。当然好き嫌いもあったのですが、何れにしても全体的に驚くほど面白く読むことが出来ました。大賞作品一本と優秀作品が二本。該当者なしという年も多かったこの戯曲賞では異例のことだと聞きました。明るいですね。以下選評は敬体をやめまして、常体で書きます。敬体には自然と気遣いのようなものが生じてくるきらいがありますでしょう。
私は大賞に本橋龍さんの『転職生』を推した。正規社員とアルバイトの立場、演劇というものへの偏見など、作者の実体験に依る視点から、少しずつ視野を広げ、よほど関心を抱かなければおよそ実態のないような社内の人々の営みに、淡い輪郭を浮かび上がらせた。異なる価値観を携えた転職生・新しい風の登場で、指令を失った蟻の隊列が少しずつ乱れてゆくように、それぞれ淡い輪郭の中に、本音を垣間見せた。構成も口語体のダイアローグもバランス良く、視点も極めて一貫しており、応募作の中で最も切れ味が良いという印象を受けた。
『酒乱お雪』に込められた異様な気迫は、審査会でも一番の話題となった。明らかに書きすぎてしまってはいるものの、読後の爽やかさは、「親潮上空を吹きすさぶやませが、オリオ、お前の心にも吹いているのかい?」という懐かしくもキレの良い台詞を怒涛のように浴びた後だからだろうか。丁寧に削ぎ落とせば飛躍的に伸び上がるポテンシャルを感じた。まるでコラージュかと思わせるほどに、昭和を忍ばせるノスタルジックなポエジーが溢れた。作者の伸由樹生さんは十九歳で、これが初戯曲だとか。平成という時代を丸々飛び越えてやってきたようであった。次の作品を読んでみたい。
斜田章大さんの『小説家の檻』は作者の脳内にあるプロットの域を出なかった。後半畳み掛けるように死んでゆく登場人物たちに、信じられる動機を感じ取れなかった。裏地という人物の登場はあまりにも都合が良いが、憎悪が多量の嘔吐となる点について、実に気持ち悪いのだが、私は好感を持った。
國吉咲貴さんの『チキン南蛮の日々』。私はかなり愉快に読んだ。特にインコのピースケの造形は、インコを実際に飼っていたこともある私としては見事だと。インコは想像以上に人間に懐き、思わぬ言葉を記憶・再生し、しかしもちろん鳥類ゆえその心の中はどこまでも真っ暗な闇なのだ。ただチキン南蛮はまだしもインコも俳優が演じることを考えると、どうしても戯曲で読む以上の面白味を脱せそうもなく、推しきらなかった。
キタモトマサヤさんの『ほたる ふたりの女優のために』。関西弁のポテンシャルを感じた。漫才のような丁々発止のやりとりの中に、裏腹な感情、また疑心暗鬼を孕むことが出来るのではないか。ただどちらの登場人物も動機が茫洋としていた。ゆえに掛け合いもいま一つ盛り上がらない。動機をしっかりと掴んでおけば、そしていつ何があったのかをもっともっと鮮明にしておけば、その場面を直接描かなくとも、もっとスリリングになったのではないか。また「ふたりの女優のために」という副題が適当であったのか疑問が残る。
『新在り処』は、いまひとつ何故こうした事態が生じてしまっているのかスッキリしないまま読んだ。作者は如何なる意図を持ってこのシチュエーションを作り出したのか。息子でないものを息子と思い込むコメディとして紡がれたのだとしたらかなり仕掛けが甘いのである。聞けばこの作品は作者の相馬杜宇さんが実際に障害を抱えてしまったことで、元々発表していた作品を改めて書き直したのだそうだ。そう聞くとまた読み手の心持ちも揺らいでくるが、それでもたった三人しか登場しない登場人物に、もっと魅力を与えられなかったのか。
松岡伸哉さんの『はるまつあきふゆ』。やはりプロットの域を出られなかったのではないか。ひとつの場所で時間を混在させる手法は新しくはない。せめて家族や家庭が孕む折々の時間の濃密な匂いを、いつも漂わせてほしかった。ダイアローグも人物の複雑な関係を表しきれてなかった。時間が共有される居間のイメージが、ト書き上も台詞に於いても、いまひとつぼやけたままであったことも気にかかった。
大賞となった大池容子さんの『バージン・ブルース』を私は大賞には推さなかった。満遍なく饒舌になり過ぎてはいないか。ただこの作品は当て書きだったそうで、だとすれば、私が粗っぽく感じた台詞は、案外小気味良く乗り越えられたのかもしれない。思い切りのいい大胆な展開と設定は大きな魅力だった。またマイノリティーへの荒唐無稽ながらも明るい光の当て方に好感が持てた。それでもダイアローグにもう少し魅力を感じられたらという最初の思いは変わらなかった。
私見だが、というか、これから記す全ては私見に過ぎないが、今回は、大賞に申し分ない才能を感じる作品が複数あった。大賞に値する実力を感じた作品のどれを大賞に推すかという、審査員の、作家としての趣味が垣間見えるような議論ができたと思う。嬉しかった。
僕は『酒乱お雪』『転職生』『バージン・ブルース』の三作品にそれを感じ、『バージン・ブルース』を一番に推した。
候補作8作品に細かく触れていく前に、前提を述べておきたい。毎度のことであれだが、言っておかないと気がすまないので申し訳ない。
これから他人の作品を偉そうに評価するが、僕自身は自分の作品に対する他人の評価にあまり耳を貸さないようにしている。我がことのように真剣に評価しているつもりでも、やっぱり我がことではない。自分を評価できるのは自分だけであり、そのことに一番時間や労力を割けるのも自分だろう。そして、その評価が左右する人生は自分のものだ。なので、僕の評価など話半分で聞いてもらいたい。自分が面白いと思うならそれで良いと思う。ただ、自分の作品を信じるためには作品をとことん疑う必要があると思う。この選評が疑いぬくための一助にはなれば望外の幸いである。
『酒乱お雪』 僕はこれを二番目に推した。圧倒的な質量、密度に、読む前から気圧されてしまった。「これ読むの嫌だなあ」と思い読み始めたが、読んでみると、ハッとするセリフ、展開に多く出会った。物語りに素晴らしい跳躍も認められ、面白かった。ただ長い。作者本人にも制御し切れていないように見える情熱が、こちらの体力を奪う。語り過ぎる。よく喋る、話の面白い人と飲んでいる感じ。それが二次会三次会と続き、朝になってしまいぐったり疲れて始発で帰る感じ。最初の店で完結できるように、まとめて欲しい。
作者ばかり喋りすぎてはいけないと思う。観客も喋りたいのだ。
それとは別に、オリオとお雪の出会いが雑ではないだろうか。あれならばあえて書く必要もないように感じた。最初から知り合いにしておいても不自然はない。
しかし圧倒的で野放図な才能を感じた。審査会で作者の年齢を知ってびっくりした。洗練されて欲しい気もするし、このまま行って欲しい気もする。書いていけば、放っておいても上手くなるので、小さくまとまらず好き勝手書き続けて欲しい。
『小説家の檻』 アイディアは面白いように思った。AIという話題はトレンドには違いないから、みんなが書くだろう。よっぽど優れたアイディアじゃないと抜きん出られないだろう。で、僕はアイディアの優劣は劇作にとってどうでも良いと思っていて、なのでその点に関しては評価する能力が僕にはない。
出会いが雑だと思った。偶然に頼り過ぎ。偶然出会った人になぜか自分の小説を読ませ、実はその人は、主人公と運命的な繋がりがあるという偶然。
細部が雑に感じた。いろいろ突っ込みどころが多すぎて、シリアスな物語にそぐわない。また、登場人物を簡単に殺しすぎだと思う。結構みんなすぐに自殺するのは、書き手の都合のように思える。
描きたい絵があって、それをただ描くのでは、自分のアイディアは越えられない。プロット通り書いても、自分の想定内で、一人の人間が考えたことなど高が知れているのではないだろうか。プロットを曲げるような力を、登場人物から引き出したい。
『新在り処』 お婆さんに可愛らしさを感じた。嫌な感じがしなかった。
学生というキャラクターの造形が雑だと思った。コメディリリーフとして出てきたのかも知れないが、面白いとは思えなかった。面白がらせようという意図を感じてしまったからだと思う。
お婆ちゃんの造形も綺麗過ぎるように感じた。少女のような老婆という理想の姿が見えて、生々しさを感じなかった。障害の描写は生っぽかったが、別に障害持ってなくても良いなと思った。
何か「泣かせたい」「笑わせたい」という作者の意図が透けて見えように感じ、その意図に登場人物を従えさせているように感じた。
僕は登場人物が作者にケンカを売り、互角の戦いを演じている戯曲が好きだ。作者に従順な登場人物は物語を円滑に進めてくれるが、仕事している感じで、生き生きしていない。
『チキン南蛮の日々』 僕はこの作品をまったく評価できなかったが、桑原さんと土田さんはとても評価していて、長塚さんもある程度評価していた。歩さんも僕と同じで評価していなかった。こんなに意見が割れることははじめてで、面白いことだと思った。
議論を進めるうちに、僕はこの話を「チキン南蛮の霊」の目線で読んでおり、評価している他の皆さんはどうも登場人物の「加奈子」の目線で読んでいることが判った。
僕は加奈子の恋人の「佐山」の造形が、薄っぺらいことが気にかかっており、ある種の男性のステレオタイプのような描かれ方をしていて嫌だった。
チキン南蛮の霊は出来事に対して、第三者的な立場におり(加奈子に肩入れしているので、完全に俯瞰してみているわけではないが)、加奈子よりは客観的にみているはず。なので、この佐山の造形がどうも気になったのだ。
ところが、加奈子の目線で見てみると、加奈子は完全な主観で物語り上にあるから、恋人の佐山との関係において、視野が狭窄していて、その一面しか見れていないのかも知れない。そうなると佐山の描写はこれでも理に叶っているということになる。
なるほどなあ、と思ったが、それでもやっぱり、僕はこの作品を評価できなかった。音の面白さはあったが、浅いように思えてならなかった。
僕は作家はやはり、作品に対してある程度、批評的に距離をとるべきだと思っているからだろう。この辺が審査員の趣味が出たところと言えるのじゃないだろうか。
『転職生』 僕はこの作品も二番目に推した。会話にセンスを感じる。実はこの作品だけは、審査する前に作者が誰か判っていた。たまたま東京で上演されたのを見たからで、作者の本橋くんは去年の北海道戯曲賞の大賞をとっており、そのとき以来交友もあるからだ。
出来るだけバイアスを受けないために、作者の名前やプロフィールを見ないで審査することにしているが、これは例外と言える。
で、今回の作品も面白いのだが、前回大賞を受賞した『動く物』と比べると、熱量のようなものが劣っているように感じ、一番に推すことはしなかった。本作は、「風の又三郎」(宮沢賢治)のパロディである「転校生」(平田オリザ)のパロディになっている。ここでいうパロディはからかいや滑稽を狙ったものの意ではなく、純粋な引用の意。
風の又三郎の物語は、ある種の物語の典型となっていて、僕の類別に寄れば「赤毛のアン」や「カッコーの巣の上で」や「今を生きる」などなども、同じパターンだ。つまり、或集団に誰かがやってきて、その集団(多くは古く凝り固まっている)を変え、去っていく(アンは去らないけど)。
もし、意識的に「転校生」を引用したのだとしたら、志が低いんじゃないのと思ってしまった。同じ類型の他の作品を越えるものを作る意気で書くべきではないか。「転職生」というタイトルからも、何か小粒な印象を受けた。多分これは僕の個人的な考え方に由来するものだから、審査においては排除すべきなのだが、どうも引き摺ってしまった。
前作『動く物』の印象が強かったこともあり、どうもそういうバイアスを取り払うことが出来ず、一番には推せなかった。
全く何の予備知識もなく読んでいたら、もう少し悩んでいた可能性はある。
内容にもう少し突っ込んだ話をすると、登場人物の名前が全てフィクショナルなものになっているのはいただけないと思った。どういう効果を狙ったものか判らないが、卑近な出来事の中にもドラマがあり、みんな生きているのだということが、この話の肝だと思って読んだが、奇妙な名前が、観客である自分たちが生きる世界と、劇世界との地続きな感覚を阻害しているように感じ、入りづらかった。どこか他人事に思え、テーマにそぐわないのではないか。これも趣味の問題か。結局審査員の趣味の問題なので、賞に普遍的な価値などない。
『バージン・ブルース』 僕はこの作品を一番に推した。タイトルを見て「やばいの来たな」と思い、男性二人が娘を育てているところから「ああ流行りに載ったのね」と、思ったが、載ってなかった。こちらの想像をどんどん裏切り、その裏切りが心地良く、最後まで面白く読んだ。
ただ面白いだけの戯曲でもなく、「なぜ女性だけが子供を産むのか」「普通とはなんだろう」とか、普遍的で重い問いかけが、上品に、物語の裏の方に隠れているように感じ、とても好感が持てた。作者の主張をずっと聞かされるタイプの作品には辟易とするが、主張は常に裏に回っており、それも断定ではなく問いかけのような形になっている。品性を感じた。
会話が上手いので物語が地に足ついており、観客も一緒に、物語の突拍子もない飛躍についていける。
あえて難をいうのなら、歌に頼っているようなところだろうか。歌がなくても全然なりたつのにもったいないと感じた。僕も歌や音楽に憬れや嫉妬を感じるが、我々のセリフもそれに負けていないと信じるようにしている。
あとやっぱりタイトルはもう少し考えた方が良いんじゃないだろうか。
『はるまつあきふゆ』 プロットの組み立ては上手だなと思った。
ただ、登場人物の悲劇を利用していないか。みんな悲劇に囚われすぎている気がする。内省や時間の経過がもたらす、個人の心情の良い変化が無視されているように感じる。
冒頭で、爪切りと新聞紙の挿話がある程度の時間を割いて語られるが、最後まで聞いてみると登場人物の動機、行動に納得がいかない。なぜそこまで新聞紙にこだわったのか? 得心が行くとすれば、その行動は観客に向いていたという解釈だ。観客を面白がらせようと思っていなければそんな理不尽な行動や言動にはでないように思えた。
露骨に言えば、冒頭で笑いを取って物語に没頭してもらおうという魂胆のようなものが見えた。それが悪いわけではない。そこに登場人物である二人の女性の他に、観客というものが確かに存在していることを暗示してしまうのが問題だ。それは、この芝居には常に、登場人物の他に、観客というものが居ますよというルールの提示に他ならないのではないか。
となると、登場人物たちの身に起きた出来事も、それに起因する悲しみも、観客に向けたもののように、僕には思われてしまう。何のために悲しんでいるのだろうか。登場人物が観客のために存在してはいけないと思う。
『ほたる ふたりの女優のために』 状況は何か、面白くなりそうな雰囲気を感じたが、最初から最後まで二人の距離が変わらないので、読んでいて気持ちが動かなかった。サスペンス的な要素よりも、二人の人間の距離を描くべきではなかったか。
出会いが雑だと思う。偏屈だから、頭がおかしいからという理由では納得がいかないほど、二人の距離が急に近すぎる。距離が徐々に近づいていくその階調を描くためには、最初から近い距離にいさせるのは得策ではないのでは?
二人の掛け合いも最初から成立して、漫才のように軽快だが、当然、漫才ほど面白くはない。我々は漫才師ではないので。
二人の孤独な女が、いかにして軽やかな会話を交わすにいたったか、その道程を追体験させて欲しかった。
募集期間 | 平成29年7月5日~9月1日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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応募数 | 122作品(新規85作品) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年齢別 |
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都道府県別 |
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長田 育恵 | (演劇ユニットてがみ座主宰) |
斎藤 歩 | (札幌座チーフディレクター) |
土田 英生 | (MONO代表) |
畑澤 聖悟 | (劇団渡辺源四郎商店主宰) |
前田 司郎 | (劇団五反田団主宰) |
大賞 | 『動く物』 | 本橋 龍 | |
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優秀賞 | 『10分間~タイムリープが止まらない~』 | 中野 守 | |
最終選考作品 | 『動く物』 | 本橋 龍 | (東京都) |
『鱗の宿』 | 島田 佳代 | (鹿児島県) | |
『サウンズ・オブ・サイレンシーズ』 | 弦巻 啓太 | (北海道) | |
『些細なうた』 | 田坂 哲郎 | (福岡県) | |
『10分間~タイムリープが止まらない~』 | 中野 守 | ||
『鶴吉印章堂~畑山さんの印』 | 田邊 克彦 | 青森県 | |
『中ノ嶋ライト』 | 滝本 祥生 | (東京都) | |
『西のメリーゴーランド』 | 川口 大樹 | (福岡県) | |
『南の国から』 | 大迫 旭洋 | (宮崎県) | |
『メゾン・ド・ユー』 | 荒木 建策 | (東京都) | |
『Replace Grace』 | 木村 恵美子 | (埼玉県) |
本年も審査会のため審査員たちが北海道に集った。早朝から天候による欠航や遅延が相次ぎ、全員が集えたのは20時頃だったと思う。同じメンバーで集う4回目の審査会。今年は全員がある予感を秘めて集っていた。果たしてそれは現実となり、本年は大賞作が決定。大賞が出たのは第1回以来だ。劇中から匂い立つ皮膚感覚や五感のようなものを同じ作家として羨ましく思う、そうした作品と出会えて幸せだった。
『10分間~タイムリープが止まらない~』
細かく考えられたプロット、随所に配置されたアイディア、飽きさせないストーリーテリング。その完成度に賞賛の思いが湧くが、ストーリーを抜けた先に待つあっけなさに惜しいと感じた。ストーリーが強力な分、その力を借りて人物の息吹にもっと触れたい。遠くに辿り着きたい。読んでいて欲深くなってしまった。
『鱗の宿』
読後に思い出せる景色がある。世界観が立ち上がっていた。けれど中心にいる人間の内側に「今、触れられた」と感じる箇所が弱く物足らなかった。閉塞感のある島を舞台に人魚をモチーフに使っているが、島から想起される日本の土着的な八百比丘尼像と西洋の人魚姫像とイメージがばらけ薄れてしまったように思う。前の応募作が魅力的だっただけに、もっと降り立つことの出来る作者だと感じる。
『鶴吉印章堂~畑山さんの印~』
ハンコを象徴に、人生の岐路を切り取ろうとした着眼に心惹かれた。会話もうまく、手堅く纏められてる。けれど登場人物たちに作者の都合が見えていて、人物間に流れるものにもっと繊細さや豊かさがほしかった。
『サウンズ・オブ・サイレンシーズ』
構造は面白かったが人物造形が典型的で興味を持てなかった。ここから作者のオリジナリティを発揮して欲しいという肝心の地点からが描写されず、踏み込まれない。アウトラインを受け取るところで終わってしまった。
『動く物』
最も奇妙で、喉の内側から痛がゆく触られているような、飲み込みがたい読後感。二人の生活が空気が流れ続けるまま描写される中で、菓子の缶に捨てられた無数の精子、堕ろした子供、根底に潜む喪失感がじわりと迫る。その奥に生物としての人間を含めた生態系の気配がうっそりと立ち上がってくるのには、ぞくぞくした。ただ、これは私の我が儘かもしれないけど、『星の王子さま』を材料に使用されたのが勿体ないと感じた。せっかくオリジナリティある世界観に満ちる五感が、手垢のついたコンテンツに手繰り寄せられることで、急速に鈍るような。私にはこの素材が逆に作品を繋ぎ止める軛(くびき)に感じられてしまった。
『中ノ嶋ライト』
舞台設定の着眼もストーリーもとても興味深く、大きな期待感を持って読み始めた。が、その設えに強度がある分、かえって登場人物の弱さが目立った。関係性は提示されているのだが、人物の内面をあぶり出すストロークが足りていない感触。もっと人物描写を見たいと思った。
『南の国から』
戯曲から感じられるおおらかさ、柔らかな詩心が好きだった。この作品は神話の世界と現実をリンクさせる試みで書かれているけれど、神話部分がダイジェスト紹介に留まっていて現実世界にのっぴきならない作用を及ぼしてはいない。伸びやかな言葉からは作者の良さが心地よく伝わってくる。ここからより力強い作品を生み出してほしい。
『Replace Grace』
現代的で興味深い分野を、登場人物の皮膚感覚を伴う台詞で描き出していることにとても好感を持った。作者がどの人物にもある距離を保ちながらドライに描き出している視点にも共感。根本にリアリティも感じた。エンドマークまで行き着いて、続きがあればと願った。フィクションの力を借りたのだから、サンプル開示を踏み越えて、作者自身の意志や未来をどう見通しているか、その先にもっと触れたいと。
『メゾン・ド・ユー』
演劇における面白さをどこに求めるか。感性はむろん作者それぞれなので、圧倒し説得して欲しかった。人物がキャラクター化されすぎていてダブつきや既視感をもたらし、新たな登場人物ほど新鮮さが薄れてしまった。物語の疾走感は印象的。
『些細なうた』
実在の歌人の50作近い短歌群が作品の大きな魅力になっている。戯曲は、その優れた素材を自分の世界観へうまく纏め上げていたと思う。シンプルなストーリー軸でありながら、構成の工夫、語感やリズム感で鮮やかに彩られている。現実と抽象世界のリンクの仕方も推進力があった。企画前提の作品として見ると大満足なのだが、戯曲賞という観点からすると、素材の力が大きすぎた。個人的にはとても好きな作品。
『西のメリーゴーランド』
筋を追うことが主眼となっていて、それを通して何を見せたいのか、どこに着きたいのか、大きな企みがない。家族や輪廻、生死観など材料は点在するのだが一過性で浅いのが残念。表層の笑いや涙の奥を追求してほしかった。実際の上演ではきっと面白く立ち上がるのだろう、登場人物全員に作者の愛が注がれていたから。
動く物
一番面白かった。面白いのだが…星の王子様を引用しているのだが、引用するための仕掛けが弱いと感じた。二人芝居で、この引用によって、二人の俳優が別の側面を見せてくれる可能性を期待はできるのだが。ジャガイモを薄暗い所で発芽させたことがあるので、あの衝撃は共感できた。人間も動物で…みたいなことだと思うのだが、若い世代の不安定さをどのように舞台化するのか、一番興味を持てた作品。
鱗の宿
今回の中では好きな戯曲だった。全編通して気になるのが陽という高校生の饒舌さ。陽が語るいくつかのことが唐突に感じてしまう。素振りとか。芳井の鱗を盗む動機にもやや無理を感じる。家の外で次々に起こる割と激しい事と、石渡の家の中の平穏さのアンバランスさはいいのだが、その当事者が登場しないことが多く、語られることだけで、ちょっと物足りない。人魚堂という洞窟の構造も想像するだけであまりちゃんと語られていない気がして、「水が沁み出している」と言われたり、「島が沈む」という感覚が、もう少し具体的にイメージできないのかと感じる。「人魚の子ども」のお話が、「秘密をしまう箱」に繋がることがスッ腑に落ちないのが残念。
サウンズ・オブ・サイレンシーズ
幼稚だと感じた。大人の男女の悩みを描くには幼い。人物がいずれもステレオタイプで「キャラ」という設定で描かれている気がして会話がつまらない。こういう設定やプロット思いつくのであれば、会話をもっと大人の会話にしなければならないのではないか。どの人物も物語の流れを説明する会話しかない。渉が姉と関係を持ったことが無理に感じて、大人を描けばそれがないのだが、そもそも、設定とかプロットだけで客を裏切ろうとする、まるでRPGを構想するかのように演劇を描き、登場人物を「キャラ分け」しているからではないだろうか?
些細なうた
何故ラジオドラマを書く劇作家との二重構造が必要なのか?ヒントを得た解決結果が31文字だというのがあまりにスッキリせず、「サイト」とか「→」とか言う登場者の扱いも、いつの間にか現れなくなったり一貫しない。引き籠る男の外への挑戦物語なのだろうが…笹井さんの短歌がいずれもいいのだから、もっと違う物語にした方が良かったのではないかと、感じてしまった。
10分間~タイムリープが止まらない~
つい笑いながら読み進めてしまった。滑稽でおかしくて、気の毒で、笑ってしまったのだが、どこか都合が良すぎて、完全に気持ちを預けられなかった。結局みんなで仲良く映画を撮ろうという良さげなお話で、結果的に物足りなかった。それにしても、ちょっと笑った。
鶴吉印章堂~畑山さんの印~
登場人物が皆饒舌過ぎて、舞台上で喋り続ける強迫観念でもあるのだろうか?普段こんなに喋らないなどと言わせながら、喋らせていることの無理を感じる。判子屋という仕事、離婚を決意した女、この設定だけで、そこからさほど広がりがなく残念。女房と主人の関係も薄っぺら。何で判子を忘れたのか、それが離婚届なのかと期待もしたが、違っていたようだ。ちょっと好きなんだけど。
中ノ嶋ライト
無理がある。男女関係のもつれと解決に必然性が感じられない。対立だけが目的なのではないか?白熱電球のことを懐かしむムードだけで、先が読めてしまい、つまらない。なぜ主人公は47歳の教師でなければならないのだろう?
西のメリーゴーランド
他の作品のいくつかにも感じるのだが、どうしてこうも笑ってもらおうとするのか?生死を設定で遊ぶRPG的な作品だと感じた。そのくせにありふれたアットホームさや一般論としての家族像を嵌め込み、共感を得ようとしているようで、ウェルメードには至らない。
南の国から
神話という者に対する畏れや、疑いなど、検証もなくただそれらをダイジェストにしているものは、現代演劇として成立しないのではないか。「北の国から」という有名ドラマとの対比というセンスや、設定、セリフなどレベルが低い。兄と先生が結婚したことで引き籠ってしまう妹など、リアリティに欠けることが多く、辛かった。
メゾン・ド・ユー
「キョドリながら」「腐女子風」というト書きの意味が私にはわからず、世代の違いを感じた。危機回避能力とか、人を能力で測るあたりなど、やはりこれもキャラで描くRPG的。そして、偶然が多すぎる都合のよさ。結局はいいお話にまとまって、現状肯定をして観客も安心して家路に着くというわけなのだろうか。
Replace Grace
科学・医学そして倫理のような話だが、人物を描くことより、観念というか論文のようで、演劇として面白みがない。異なる意見の対立もあるようでない。問題提起にもなっていない。予定調和的な対立のみで浅い。
本橋さんの『動く物』が大賞になった。おめでとうございます。昨年、一昨年と大賞が出ていない状況だったのでその結果に胸を撫でおろした。さらには今年も雪のために審査員たちがなかなか札幌に集まれず、結局は何時間も遅れての開催だった。それでもなんとか開けてよかった。同じ理由で審査会自体が2ヶ月もずれた昨年のことを思うと、本当によかったと思う。
私は最初島田さんの『鱗の宿』を推した。この人の作品はこれまでに何本も読んでいて、私はいつも気になる。確かな力量もあるし、何より私は彼女の作風も含めて好きなんだと思う。ただ、もったいないのは石渡夫婦の物語が軸としてもう一つ機能し切れていないことだった。島という場所自体を描いているとするとそれも弱い気がするし、中途半端な印象を残してしまっている気がする。
『動く物』の得体の知れなさに関して私はかなり用心深かった。具象と抽象のはざまでつむがれる会話はとても魅力的だったし、出てくるエピソードには実体感もあった。ただ、時折、その世界で泳ぎきれず、作者の意図がひょっこりと顔を出す瞬間が気になったのだ。後はタイトル。一周回って敢えてこれになったのだと思うが、もう少しタイトルの付けようもあったのではないかと個人的には思った。
佳作になった中野さんの『10分間~タイムリープが止まらない~』は、アイデア自体は斬新ではない。ただ、繰り返されるタイムリープの中で、主人公や周囲の反応の差異の描き方が見事だと思った。中心となる物語の芯がもっと太ければかなり面白くなると思う。タイムリープから脱した時に、もう少し大きなカタルシスが欲しい。
審査会の過程で最後まで遡上に上がり続けた田邉さんの『鶴吉印章堂~畑山さんの印~』は評価が難しかった。瑕疵も見当たらず、多分、上演を見ても普通に満足できる作品なんだと思う。ただし、その分、残るものも少ない。ドラマは時間の変容と人物の変化がカギだと考えるが、その点、そうした変化が弱い印象だった。
北海道戯曲賞に関して毎年困るのは、なぜか私が個人的に親しくしている劇作家の作品がたくさん候補に残っていることだ。今回で言えば川口さんと滝本さんは頻繁に話す間柄で、今回の候補作の上演も観ている。もちろん努めて冷静に読み審査会に臨んだ。
滝本さんの『中ノ島ライト』は白熱電球を作る会社が舞台になっているが、ここで起こる人間模様と、なくなっていく白熱電球がうまく絡まないのがもどかしい。内側の会話は上手くかけているのに、「環境会議」「市長」など舞台の外に広がる世界を構築できていないのが致命傷だと思う。
川口さんの『西のメリーゴーランド』は改めて台本で読むと、あまりに説明が多いのが気にかかる。SF的な設定にリアリティを持たせたい場合、もっと大胆に説明を省く作業が必要な気がする。コメディのセンスは確かなので、設定に凝らず、もっとシンプルな話を書いてみたらいいのでは……これは彼に対して常に思っていることだったりする。
田坂さんの『些細なうた』は劇中で使われている短歌が魅力だ。ただ、これは笹井宏之さんが書いたものだ。もちろん盗作というのではなく、作者は許可も取って意図的にこの作品を書いている。タイトルに使われている「些細」というのも、笹井宏之さんが書いていたブログのタイトルだったようだ。けれど戯曲として評価することには戸惑いを感じた。
大迫さんの『南の国から』は神話を挿入するメリットが感じられなかった。神話に対する作者の距離も図りかねた。
弦巻さんの『サウンズ・オブ・サイレンシーズ』はあまりにも世界が小さい。構成には面白味を感じたものの、それだけで終わってしまった。
荒木さんの『メゾン・ド・ユー』 は面白い台詞は散見されたけれど、笑いとしても弱くて苦しかった。
木村さんの『Replace Grace』 は戯曲として書いていることをもう少し意識して欲しかった。場の転換があまりに都合よすぎる。どの場を切り取ったら演劇になるのかを考えて、踏ん張って書いてもらいたいと思った。
最終候補が11本ということで、今回はとても苦労した。ただ、作品の質としてはかなり高かったのではないかと思う。本橋さん、中野さん、改めておめでとうございました。
『些細なうた』が面白かった。夭折の歌人・笹井宏之の短歌を手がかりにして重層的に広がった世界が主人公の引きこもりからの脱出と作者の脱稿に収束される。言葉遊びも自由かつ豊かでぐいぐい読めた。歌人の作品世界をあの手この手で変奏してみせる手腕が見事。ただ戯曲全体の魅力より、多く引用される短歌そのもの魅力が勝っていることは否めない。評伝劇としては当然モチーフを際立たせるべきであるからこれで正解なのだが、結局面白いのは短歌だよね、という印象がどうしても残る。戯曲としてどう評価するか審査員の間で意見が分かれ、残念ながら入賞には至らなかった。
『動く物』は小さな世界を描き上げる物語。男女が脱走したペットを捜索するうち6畳間が一つの生態系として立ち上がり、その中に同じ動物として取り込まれていくアイディアが面白い。台詞が抜群に巧く、独特の世界観も見事。大賞として推すのに何の躊躇も無かった。ただ終盤、構造として仕掛けてあることをわざわざ台詞で説明しているのが勿体ない。もっと放り投げてくれればいいのに。
『10分間~タイムリープが止まらない~』はたたみ掛ける展開が見事。10分間という時間制限がスピード感を生んでいる。劇中示されるタイムリープのルールが強引でありながら腑に落ちるあたりに作者の力量を感じる。掛け合いなどの細部に強度があり、これは上演を繰り返して積み上げたものではないか。途中ウエットになりそうでならないあたりもよい。
ただタイトルはもうちょっとなんとかならなかったのか。
『鱗の宿』は手練れの作品。雰囲気を作り上げるのが抜群に巧く、閉塞した空気感がびしびし伝わってくる。このコミュニティを支配する人魚のイメージが不明瞭なのが惜しい。
登場人物がもっと動いて欲しいと感じた。
『鶴吉印章堂~畑山さんの印~』は独特の雰囲気を持つ作品。延々と続く無駄話を生き生きと描いている。欲を言えば、せっかく並べた情報を後半の展開に貢献させるような企みが欲しかった。
『サウンズ・オブ・サイレンシーズ』同じ場面を、主観を変えて再生するなど成が巧み。会話のリズムもよい。技術には感心するが、上手に組み立てること自体に作者の興味が注がれているように感じる。つばめの妊娠が判明した時点で終わるのは物足りない。ドラマとして見応えがあるのはこの後ではないか。
『中ノ嶋ライト』旧技術へのノスタルジイで押すのかと思いきや、中小企業内のドラマに主眼があり、読み応えがあった。ただ、個々の人物造形にはもうひとつ深みが欲しかった。白熱電球が無くなる事が決定的になってからのやりとりがやや長い。
『西のメリーゴーランド』はスラップスティック人情噺。楽しく読んだが、設定も展開も作者に都合良過ぎるのが残念。
『南の国から』さわやかな語り口に好感が持てるが、現代の物語と神話の物語がいまひとつ互いに貢献していない。
『メゾン・ド・ユー』古いコントをつなぎ合わせたような印象。一生懸命面白いことをやろうとしている事は伝わる。
『Replace Grace』被験者同士のやりとりなどなかなかスリリングで面白い。ただ全体的に生命倫理に関する既存の議論をトレスした印象。素材のまま並べたように感じた。
前提として。僕が小説や戯曲を書くとき、五十年前の人にも五十年後の人にも外国の人にも相手が人間であれば通じるような普遍性と、技術が進歩してもAIには書けない身体性をもったものをと、心がけている。なので、審査の際もその基準で見た。しかし、それが果たして戯曲賞の審査の基準として正しいのかどうかわからない。ただ僕は批評家でも評論家でもなく作家なので、自分の基準でしか見れないのでこれまでそうしてきたし、今年もそうした。
『メゾン・ド・ユー』
伏線を上手く回収していましたという感じ。飽きずに読んだが、ある種の軽さだけがあって、その軽さも呆れるほど端的でなかった。どうでも良い物を書くならとことんまでどうでも良い物を書いて欲しい。それなら読みたい。
『Replace Grace』
終始同じ話をしているように読めた。一側面しか描いていないから深みを感じられない。無駄が必要では? 頭で考えて作ったように感じてしまう。身体も使って、理屈に合わないところも、思い通りに行かないところも、あった方が良いと思う。贅肉のない体のような本に感じた。贅肉がなく美しい本もあると思うが、それには詩情が必要だと思う。
『10分間~タイムリープが止まらない~』
このアイディア自体、新しいのか古いのかわからないが、こういうのにあまり馴染みがないから「良く出来ているなあ」と思った。登場人物たちの戯画化が少し目立ちすぎたように思う。突拍子もない設定を信じさせるためには、もう少し生っぽくても良かったかと思う。
『鱗の宿』
好きではないけど雰囲気がある。雰囲気だけになってしまっているようにも読めた。何か、作者自身の切実さのようなものが僕には見えなかった。上演のために書かれたように思える。書かねば済まされないような熱が感じられなかった、こっちの問題かも知れないが。この作品が優秀賞を獲ってもなんの文句も無いとは思ったが、積極的に推す気にはならなかった。
『鶴吉印章堂~畑山さんの印~』
会話が良い。好感を持って退屈せず読めた。が、人と人との接近が都合よすぎに思えた。そんな簡単に近づけるもんかなあ。四人とも人懐っこ過ぎないか? 大事な部分を歌に仮託するようなやり方は感心しない。そりゃ歌には観客の胸座を掴んで揺すぶるような力がある、戯曲はもっとさりげなく客の心を揺すぶるものだと思う。せっかく会話で作ってきてそこで歌うの? と感じた。ドキュメンタリー仕立ての青汁のCMを思い出した。演出次第なのかなあ。
『サウンズ・オブ・サイレンシーズ』
なんかよく出来ていたけど、会話がなあ、下手だったなあ。理屈で作ったっぽいんだよなあ。人物が物語に隷属してるのではないか。願わくは登場人物は、作者よりも偉く賢い方が良いと思う、作者の奴隷のようになってはいけないだろう。ちょっとそういう風に感じてしまった。
『動く物』
これを一番に推した。面白かった。対話が良い。人物に魅力を感じた。長田さんが言うように確かに引用の部分は無くても良かったかも、しかしあっても良かったと僕は思う。もう少し長く登場人物も多い戯曲も読みたい。
『中ノ嶋ライト』
電球の説明とか減らして、もっと人間関係を書けばいいのにと思った。人間関係においてハッとする瞬間もあった。最後結局互いの感情を爆発させて終わらすのなんだろう?
よく見るけど。別に綺麗に終わらす必要もないんじゃないだろうか。入れ子になってる構造も必要だったのかな? あの部分をなくせばもう少し人物を描けたのにと思う。
『南の国から』
よくがんばった市民劇みたい。よく出来た市民劇であったなら、もう少し高い評価が出来たかもしれない。頑張ってる感じが見えてしまったように思う。タイトルやファーストシーンで、「北の国から」のパロディであることが明示されており、それが作品自体の質を高める効果を生んでいるとは思えない。作品の格をさげていると思う。ほんとうにその小さな笑い必要だった?
『西のメリーゴーラウンド』
無理に笑わそうとするのはいらない。家族のお涙ちょうだい話が雑に思えた。こういうベタなネタはよっぽど良く出来てないと、すでに見たことのある話に思えてしまう。
『些細なうた』
短歌良かったと思ったら引用だった。会話はセンスを感じるところもある気がする。引きこもりが希望を見出すという物語を陳腐に感じてしまった。これを陳腐に感じさせない工夫が必要だったと思う。ラジオドラマどうのが必要だったのか? ラジオドラマどうのをなくして家族の話を膨らますべきだと思った。家族の話はもっと読みたかった。
色々思ったことを書いたが、上に書いたようなところを気にして書いたとしても、僕の趣味にあった作品にはなるかもしれないが、それぞれの作者の趣味と符号するとも限らず、僕は常々「お前ら審査員なんかより俺の方が面白い」と思って審査を受けてきたから皆さんもそうであると思うし、だからこんな選評はすぐ火にくべてしまえ。
募集期間 | 平成28年6月1日~9月2日 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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応募数 | 117作品(新規94作品) | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||
年齢別 |
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都道府県別 |
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長田 育恵 | (演劇ユニットてがみ座主宰) |
斎藤 歩 | (札幌座チーフディレクター) |
土田 英生 | (MONO代表) |
畑澤 聖悟 | (劇団渡辺源四郎商店主宰) |
前田 司郎 | (劇団五反田団主宰) |
大賞 | 該当作品無し | ||
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優秀賞 | 『海の五線譜』 | 吉田 小夏 | |
『Sの唄』 | 藤原 佳奈 | ||
最終選考作品 | 『あの町から遠く離れて』 | 土橋 淳志 | (大阪府) |
『海の五線譜』 | 吉田 小夏 | (東京都) | |
『Sの唄』 | 藤原 佳奈 | (東京都) | |
『カノン』 | 村上 典子 | (東京都) | |
『チャットルームでなぐり合い!』 | 中野 守 | (兵庫県) | |
『ひみつ箱』 | 鈴木 穣 | (東京都) | |
『船の行方知らず』 | 合田 団地 | (京都府) | |
『ブルーマウンテン号の卵と間違い探し』 | イトウワカナ | (北海道) | |
『ミュージカル「DAICHI」』 | まきりか | (東京都) | |
『めくじら尺』 | 平石 耕一 | (埼玉県) |
昨年に続き優秀賞二作という結果になりました。それは、この戯曲賞が「応募作の中から相対評価で優れた作品を選ぶ」わけではなく、私たちが抱く、より大きな問いと不可分であるからだと思います。熱量を持つ戯曲とは。読み手をどうしようもなく突き動かし、あるいは何かしら見過せないものを孕む戯曲とは。そうした意味で、演劇に携わる創作者という同じ視点で、各作品と対話するように読みました。
全体的な印象として、今回の最終候補作は、危なげない地点で戦っている作品が多く、もっと、書かざるを得なかった作者の切実さに触れたいという思いが募りました。その中で、幾つかの作品について触れます。
『ブルーマウンテン号の玉子と間違い探し』家族という共同体を考察することへ身体的にアプローチしようという試みに惹かれました。けれど問いかけの間口を広く設けたものの、ここからが検証の本腰というところで手控えている。リズム感と身体感覚という武器があるのだから、もっと欲張りになってもいいのでは。
『あの町から遠く離れて』冒頭でかなり引き込まれたのですが、進むにつれてエピソードが既視感のあるものとなり、複数のラインを手堅く回収した印象。世界観の魅力が、「ゴドー」など既存作品に大きく依っていたのが残念。けれど、軽やかな発想や文体、場面展開の妙など、作者のほかの作品も読みたいと強く思わせられました。
『DAICHI』候補作中、唯一のミュージカルに言及します。この主題を書くためにミュージカルの手法を使うことは正攻法。誠実に書かれていました。反面、主題と形式に甘えてしまう危険が。史実から着想を飛翔させ、よりドライに捉え直すことから作品の可能性を探ってほしい。近年、市民参加型の作品を創る企画が多いからこそ、オリジナルミュージカルの強度や豊かさをもっと貪欲に求めていきたい。
『Sの唄』語り手一人ですが、様々な情景が体感できました。作者の五感が生きた文体に最も強く惹かれました。唄うことで演じ手が異層に入っていくことも、その戻り際が妙に生々しく感じられそうで。小品ながら、作者が今、この作品を書かなければならない切実さと力強さを最も感じました。作者の才が光る一作だったと思います。
『海の五線譜』一本推すならばこの作品だと審査会に臨みました。戯曲構造、技術、世界観の美しさなど候補作の中では随一だと。この作品で特に印象深いのは、新婚旅行先で単独行動することになった新妻が、かつて恋した男に再会し、一線を越えるかどうか揺らぐ場面。登場人物たちの暗部をも含めて描き出されていれば、より大きなうねりを生んだのではないか。「安心して観ていられる作品」から一歩も二歩も踏み出していけたのでは。残念ながら、ほかの審査員たちを動かすところまでには至りませんでした。
3年目に入り、昨年大賞を選ぶことができなかったので、今年こそはと10作品を読ませていただきました。12月の審査会が豪雪のため流会となり、1月に延期されたことで、更に読む時間を得ることができたのですが、やはり群を抜いた大賞に推したい作品を見出すことができないまま、審査会に臨みました。大賞とまでは行かないが「あの町から遠く離れて」は、巧みな構成や、散りばめられた一見無意味に見える伏線が次々に回収される快感から、軽快に読み進めることができました。しかし、軽快に読んだというだけで、なぜ「ゴドー」である必要があるのか?など、劇作家がそれを選んだ根拠のようなものが乏しいのではないかと感じました。
それを書いた劇作家にとって「個人的な切実さ」のようなものが必要なのではないかと思います。書かざるを得ないほどの衝動、とまでは言いませんが、創造する集団性に阿ったり、経済に左右されたりするのでなく、戯曲として自立していて、その人にしか書けない、他に類を見ないものを、どうしても期待してしまうのです。巧みであったり、上手であったりするだけでは、私は嫉妬できないのです。
そういう点で、審査員の皆さんとの議論の中で「Sの唄」と「海の五線譜」には、その劇作家たちが固有の切実さを持ち、何かを振り切っても進もうとする意志のようなものを感じることができたのだと思います。2作品とも私が突き動かされるほどの作品ではありませんでしたが、そうした力や個人的な創作根拠のようなものを感じて、私も納得して優秀賞に選ばせていただきました。
3年間で1回しか大賞を選ぶことができなかったのはとても残念です。しかし、昨年大賞を選べなかった時の議論を経て、今年の作品に向き合ったとき、やはり前年の議論を捻じ曲げて北海道戯曲賞の志を貶めてはいけないという認識を審査員全員が共有していたのです。
今後も北海道戯曲賞というものが、北海道戯曲賞固有の理念と、大きな志を築き、貫いて行くことが望ましいと考えています。
昨年の審査会は雪の為に中止になり、仕切り直した二ヶ月後の審査。読んで間もない興奮は去り、逆に冷静な話し合いになった気がする。けれど、最後、「大賞を出すのか出さないのか」から、発表された結果になるまでは随分と言葉を交わした。魅力と欠点を同じ秤で比べられない難しさがあった。結局、優秀賞二作品に落ち着いたが、構造としてよくできているのは『あの町から遠く離れて』、言語感覚は『Sの唄』、全体のまとまりは『海の五線譜』という感じで、最後まで意見は割れた。 大賞を出すにはどうしても決め手に欠けた。昨年との比較もあり、安易には決められなかった。
それぞれの作品についての印象を書かせてもらおうと思う。
台詞は『Sの唄』が突出していると思った。語られるエピソードも陳腐でなく、それでいてリアリティがあった。ただ、一人芝居いとうこともあって、魅力のほとんどが一人称で語られる言葉にあるのが気になった。構成に少し工夫が欲しい。最後、誰も客のいない中で一人で語り歌っていると分かるところが物語としては「オチ」になっているのだが、だとしたら、前半を『最後のライブ』をやっている体で、そのタイムラインを面白く示してくれたらと思った。エピソードの中に出てくる「最初にやったライブ」と現在進行しているライブが混在していて分かりにくい。
『海の五線譜』は人の過ごした時間を感じさせてくれる作品だった。ただ、健介と典子、そして和彦の過去の関係が描き切れているとは言いがたく、その分、現在の夫婦の有り様に抱く感慨が弱くなっている。新婚旅行先での出会いなど、都合のいい展開も気になった。
最後まで悩んだのは『あの町から遠く離れて』だ。構造的にもとてもよく描けていて、エンターテイメントとして読ませる力がある。気になったのはゴドーをベースにアトムやゴジラなど、創作物からの引用が多すぎることだ。使い方がうまいという印象ばかりが残ってしまう。その登場する人びとの魅力がもっと突き出て来て欲しかった。
『ひみつ箱』は過去に遡って行く中で、二人の変遷がわかるのはオーソドックスな手法で飽きずに読めた。ただ、その年月の変化に驚きが感じらえないのがもったいなかった。
『船の行方知らず』。興味を惹かれる台詞はあったが、出ていった女、彼女を愚直に探し続ける男の存在が立ち上がってこない。女はなぜ出て行ったのか、なぜ戻ってきたのか、男はどうして探すのか? 具体的な理由はいらないけれど、了解感は必要だと思う。
『ブルーマウンテン号の卵と間違い探し』。次男が性犯罪を起こしたその後の家族。船の上が抽象的な表現にするならば、家族のシーンは実際に何が起こっているのか、どんな会話がなされていたのかなどを具象的にしなければ構造自体が意味をなさないのではないか?
『チャットルームでなぐり合い!』は着想は面白いけれど、五味や一井、四日さんなどが知り合いであることにリアリティを感じられない。納得させる仕掛けを工夫すべき。
『めくじら尺』。現在に続く過去がしっかり調べて書かれ、それをあえて言葉などを変えることによってフィクションと成立させようという試みは良かった。ただ、台詞が説明的でこなれていない。また、登場人物が多いせいもあり、それぞれが生かし切れていない印象だった。俊介の背景なりをドラマにしてほしい。
ミュージカル『DAICHI』に関しては、正直、どう捉えて評価していいのか判断ができなかった。戯曲としては成立していない気がする。大地の死を都合よく使い過ぎだと思う。
『カノン』は面白くなりそうな気配はあった。けれど、登場人物のやるせなさが立ち上がってこない。長男と父がどんどんという音でコミュミケーションを取るのは面白いのだが……。関係ないことだが、台本が読み辛すぎた。人が読むものだということを少し考慮してもらえると有難い。
3回目の北海道戯曲賞であり、審査させて頂くのも3回目である。過去2回に較べて一定の水準を満たす作品が揃っていたように思うが、突出した何かには出会えなかった。それでも大賞を出すかどうかについて審査員一同議論を重ねたが、残念ながら前回に続き今回も大賞なしとなった。
「Sの唄」は一人芝居。コンサート中のシンガーソングライターの歌とMC。主人公はいわゆるイタい女なのだが、その自意識過剰ぶりにイヤミがない。書き手の切実さなのか、ぐいぐい読ませられた。一人称であることを戦略的に活用していると感じた。ラストは母親の話に収束したが、小さくまとまってしまった感があり残念。終わってしまったことを語るだけでなく、なにか事件が起きて欲しい。コンサートの枠組みを壊してでも飛躍があればよかったのに。どれか一本選べと言われたらこの作品と思ったが、大賞として強く推すほどの決め手はなかった。
「海の五線譜」は手練れの作品。老いや死への恐怖が「一番大事なことから忘れる」ことの残酷さとして語られる。絆すら奪われても残るものはあるというささやかな希望で幕を閉じるのがいい。人物造形(特に男性)に暗部がないのが印相的。女性から見た「都合の良い男性像」は意図されたものなのなのか。だとしたらもっと戦略として徹底すればいいのにと思ったが、余計なお世話かも知れない。
「ブルーマウンテン号の卵と間違い探し」は逃亡する家族を海原のゴムボートに置き換えた。家族=船はよくある置き換えであるが、潔く徹底していていい。陸地に着いて船を降りるくだりがあっさりしていて残念。家族=船なら書くべきなのはそこだろう。ただ作者の以前の応募作からは格段の進歩が見られる。今後に期待したい。
「あの町から遠く離れて」は三題噺と複数のラインをうまく収束させた。技術には感心するが、うまく収束させること自体に作者の興味が注がれているのではないか。ゴド待ち、アトムなど各要素の扱いが表層的。震災を軽く扱っているように見えるのが、東北の人間としてはどうにもひっかかる。
「ひみつ箱」はひと組の男女の破局から出会いまでを遡って描いたが、手法に既視感がある。勿体ない。ラストシーンはなかなか切ない。
嫉妬する作品はなかった。上手だなと思う作品はあったが、上手なのがばれてしまっては駄目だと思う。ヘタクソなのに魅力的で、実は技術的に優れている作品が読みたかった。というか、結局僕自身の好みでしか評価できない。その辺は申し訳ないが、評論家ではないので容赦ねがいたい。今年は全作品に触れようと思う。
①「ブルーマウンテン号の卵と間違い探し」人工の狂気を感じた。好きになれない。きっとどんな人にも狂気はあると思う。作者のもつ、作者本人も隠したいような部分が見たい。
②「船の行方知らず」意味ありげな雰囲気が漂っているが、意味を感じられない。面白くなりそうという予感だけで、そこから展開がない。設定に設定を重ねていくのではなく、設定を展開させていく筋力が必要なのでは。
③「ひみつ箱」会話はとても上手だと思った。けど、なんで時間を逆光するのかわからない。登場人物の二人が全く好きになれなかった。会話には物語りを進めるための筋肉と、作品を魅力的にする贅肉が必要だと思う。贅肉がないと人物がただ物語を成立させるために存在してしまう。せっかく時間を遡っているのだから、過去に興味を抱かせてほしい。逆行することは後から思いついたのでは? 逆行を生かせる設定を。
④「あの町から遠く離れて」最初面白そうだったが、既存のフィクションや出来事に仮託しすぎで、志が低いと思う。震災や原発の問題の扱い方も直接的過ぎてダサいと感じる。好きじゃない。技術は一番高いと感じた。ゴドーやアトムやゴジラを尊敬するなら、それを超える作品を書くことに尽力すべきでは? 私見だが、虎の威を借りるべきではない。
⑤「チャットルームでなぐり合い!」おばちゃんが女子大生をやるとか、ネットの世界を芝居にしました感とか、悪い意味で古い。現代の事象を描きたいなら先端のものでなくてはいけないのでは? チャットルームって、今さら。劇中にエクスキューズがあったが、わかってるならこのアイディアは捨てるべき。最初に浮かんだアイディアを無邪気にやりすぎ、もう少し疑った方が良いと思う。
⑥「めくじら尺」ごめんなさい。どうしても読めなかった。誰が誰だかわからない。話が全く入ってこない。一応読んだけど、全然、わからない。僕の問題かも。他の審査員の方にお任せした。
⑦「Sの唄」笑かそうとしているところが全部キツイ。中学生的な感性が嫌。でも、そういう人でしたというオチだからいいのかな? しかし、これは実際みたら相当きつそう。他の審査員の皆さんと話しているうちに、確かに本作に一番「書きたい」という衝動のようなものを感じた。でも僕はやっぱり、笑わそうとしている感じが滲んでいるのが好きではない。
⑧「MUSICAL DAICHI」ふざけてるのかと思ったら全くの無邪気だ。ひねりがない。超素直。気持ちがいいくらい。意外と好きだけど、戯曲賞だから評価は出来ない。
⑨「カノン」非常に読みづらい。内容とは関係ないけど、びびった。原稿用紙の書式にしているのかな? 一度プリントアウトした物を自分で読んで書式を整えてほしい。俳優にも渡すのだから、読みやすい書式を心がけてください。内容の方もルールの説明が長い割りに面白くないゲームをプレイしたみたいな気持ち。軽い会話に面白みがない。「この芝居はこうやってみるんですよ」というルールは出来るだけ判りやすく短い方が良い。自分しかルールを知らないカードゲームを誰かに教えて遊ぶことをイメージしてもらいたい。
⑩「海の五線譜」作為を感じない劇作に好感を持って読んだ。しかし都合がよすぎる。新婚旅行のエピソードなど特に。迂闊にも、妻の元恋人の地元を旅行先に選ぶ夫。動けない程の腹痛を抱えた夫を放っておいて元恋人と会う妻とか。作者の都合に寄せすぎ。物語自体がお寺に置いてある教育絵本みたいに視野が狭い気がする。「物語」と「作者の都合」が内通し癒着している。両者は対立すべきだと思う。
僕は④と⑩を消極的に押した。
偉そうなことばかり言ったが、その言葉は全部自分に返ってくるものと自覚せねばならぬ。
募集期間 | 平成27年6月8日 ~9月25日 | ||||||||||||||||||||||||||
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応募数 | 76作品(新規69作品) | ||||||||||||||||||||||||||
年齢別 |
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都道府県別 |
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長田 育恵 | (演劇ユニットてがみ座主宰) |
斎藤 歩 | (札幌座チーフディレクター) |
土田 英生 | (MONO代表) |
畑澤 聖悟 | (劇団渡辺源四郎商店主宰) |
前田 司郎 | (劇団五反田団主宰) |
大賞 | 該当作品無し | ||
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優秀賞 | 『終わってないし』 | 南出 謙吾 | |
『ぼくの、おばさん』 | 池田 美樹 | ||
最終選考作品 | 『浮いていく背中に』 | 原田 ゆう | (東京都) |
『終わってないし』 | 南出 謙吾 | (東京都) | |
『戦うゾウの死ぬとき』 | すがの 公 | (北海道) | |
『中央区今泉』 | 幸田 真洋 | (福岡県) | |
『流れんな』 | 横山 拓也 | (大阪府) | |
『ブスとたんこぶ』 | 鈴木 穣 | (東京都) | |
『ぼくの、おばさん』 | 池田 美樹 | (熊本県) |
今回は優秀賞を二作選出という結果になりました。全体的に手堅くまとまってはいますが演劇作品として新たな視野を切り拓くには至っていませんでした。今後の期待を込めて全作に、少しずつ触れさせていただきます。
『浮いていく背中に』詩的な文体や断片に宿される光に好感を持ちますが、それらを用いることであぶり出そうとするものが観客に迫ってこない。現時点では、俳優の身体を通して存在するものより作者の手つきの方が表出しているのが惜しい。
『ブスとたんこぶ』作者が描こうとする人物の人間性に最も興味を惹かれました。ですが台詞や筋に既視感があり、設定が澱のように淀んで作品の魅力を曇らせている。設定を間引いて、今ここで立ち上がる人物描写に注力したら力強さを獲得するのでは。
『流れんな』台詞が芝居の空気感を孕んでいて魅力的。提示される話題も興味深い。けれど芝居の骨子が話題の移り変わりに依っていて、舞台上で今立ち上がるドラマが薄い。太いドラマにしていける筆力のある方だと思う。
『中央区今泉』群像劇ではあるが個々のキャラクターが掴みやすく、登場人物の心情もうまく組み上げられている。綺麗にまとまっていると感じるが、それだけに設定や登場人物配置、筋に既視感が否めない。
『戦うゾウの死ぬとき』男と女が何度も出会い直すという試みは興味深く、終局に事態が動き出したとき爽快感がある。けれど戯曲としては大雑把。不条理の中にきめ細やかなリアリティを埋め込んでいけば、より魅力的な作品になるのでは。
『終わってないし』ささやかな日常を見つめ丁寧に組み上げていて、細部に光が宿っている作品だと感じます。ただ演劇としてはまだ幹が細く、射程距離が狭い。こまやかな感情を汲みとる実力を持った作者だからこそ、もっと大胆に踏み出すこともできるはず。
最終的に『ぼくの、おばさん』を推しました。舞台に推進力と生命力があり、観客を引き込む力が強い。そして観劇後、確かに観客の記憶に焼き付く情景があると思う。手法としては新たな座標を持ち込むものではないが、演劇作品として最も熱量を感じました。
既視感のある場所には安心感と一定の保証が伴うと感じるかもしれません。でも作者にしか生み出せない景色を探し求める時にこそ、作者の奥底のエゴが晒され作品がこの世で唯一のものとなる。大きなエネルギーを内包する。自分が心底面白いと思う作品を求め、どこまでも果敢に。皆さんの次作を楽しみにしています。
昨年同様、まず、積極的に大賞に推せる作品がないという残念な印象で、二次審査に臨みました。昨年はそんな印象の中でも、一つ、群を抜いていた作品があったので大賞作品を選ぶことが出来ましたが、今回、いずれも他と比べて抜きん出た評価点を見出すことができず、苦しい審査会となりました。私以外の委員の皆さんも同様な印象であったため、かなり時間をかけてギリギリまで議論をしました。折角の北海道戯曲賞なのに「大賞なし」という結果は、あまりに寂しい気がしたのです。私もギリギリまで悩みました。しかし、どれを選ぶのかと言う所で、抜きん出たポイントが見つけられず、「大賞なし、優秀賞2作品」という結果に委員全員の意見が一致したのです。
気になったのはいずれも戯曲のスケールが小さいのではないか?という点でした。小さいことが悪いのではないと思うのですが(私の戯曲はかなり小さいものばかりですから)、もっと大きなスケールの戯曲が最終審査に残って来てもいいのではないかとも思うのです。近年の日本の演劇の傾向なのか、この戯曲賞の存在告知の方法などに問題があるのか、今後検討しなければならないのかもしれません。
北海道で演劇をしている者として、北海道の劇作家の作品が一つだけ最終選考に残り、それが身内でもあるすがの公くんの作品であったことも、気分的に複雑でした。実にすがのらしい戯曲だとは思いましたが、他と比べるとやはり、構造や台詞に弱点が多かった。彼のことを知らない委員の皆さんの御意見も同様でした。今後、もっと違う世代の俳優を想定した戯曲にも挑戦して、力をつけてまた挑んでもらいたいと思います。
大賞は出ない年となってしまったが、そのことも最後まで悩んだ。しかし、それは北海道戯曲賞をどういうものにするべきも含めスタッフや他の審査員の人たちと議論した結果だった。
北海道戯曲賞で私が最も興味を惹かれる点は、賞に「北海道」という冠をつけているにもかかわらず、応募者を場所で限定していない所だ。もちろん、北海道の劇作家の皆さんの活躍を期待するのは当然だ。だから例えば応募者を北海道で活動している人に限るという方法だってある。この場合、受賞者は北海道の劇作家になり、それなりのメリットも生まれると思うが、賞自体が内向きに閉じてしまうという側面も出てくる。
全国の作家を対象にすることで、より広い作品が集まり、全国からの注目も増す。そして受賞した作品を北海道で制作することにより、北海道で活動している人にとっても刺激や交流が生まれる。その為には「どの作品を大賞とするか」をしっかりと考えないといけないのだと思う。今回の大賞なしの結果は、この賞は相対評価だけで戯曲を選ぶのではなく、北海道戯曲賞をより魅力的な賞にする為の選択だった。そうして高まったこの戯曲賞を北海道の作家が取ることもあるんだと思うし、なによりその時を期待している。
個々の作品の印象を書かせてもらう。
池田さんの「ぼくの、おばさん」には引き込まれた。急一から見たタイプの違う二人のおばさんを描いているのだが、なにより台詞の距離感が絶妙で、地に足が付いて言葉が選ばれていることが分かる。こうした台詞の一つ一つは池田さんの確実なセンスに裏打ちされてこそのものだと思う。急一が緊張して実体感覚を失う描写も演劇的且つ効果的で、また、色気のある千代子に対する思春期男子が抱く甘酸っぱい感情などは手触りを持って伝わってきた。しかし、ドラマとしての展開がいささか平板であり、周りの人たちの行動や展開に、もう一つうねりが欲しいと感じた。そうしたドラマを避けるのであれば、急一の心の襞を掘り下げるなど、別の手もあった気がする。もう一つだけ意見を書かせてもらとしたら、タイトルがやや辛い気がした。捻った挙句、意図的に陳腐なところに着地させたのだと思う。読点の打ち方などから勝手にそう想像するのだけれど、それでも逃げ切れていない印象だった。
もう一つの佳作だった南出さんの「終わってないし」も読むことに労力を割く必要はなかった。冒頭からすんなり劇世界に入ることができ、ストレスなく読み続けられた。それだけに読み終わった時の物足りなさが際立ってしまったのかも知れない。彼はとても手練れな作家で、他にも何本も読ませてもらっているが、今回の作品で致命的にもったいなかったのは、話が明らかに後半で端折られてしまっている部分だった。書き足りていないことは南出さんも自覚している気がする。陽一と麻子の関係にしても、ラストでの洋子とのシーンにしても、頭では理解できるが、気持ちが追いついていかないのだ。「終わってないし」というタイトルにそういう意味も込めているのではないかとすら深読みしたが多分違う。中盤からラストにかけて、もう一シーン欲しい。また、ゲーム上での操作と現実がリンクして行くくだりも、それが話をになり切らずに終わってしまっているのが悔しかった。
「浮いていく背中に」の原田さんはエピソードや語られる台詞にとてつもない力を感じるし、基本的に登場人物がずっと後ろ向きに歩いているという仕掛けも面白い。ただ、モノローグの魅力に比べ、人物同士の接触には興味を惹かれずに終わってしまった。読めばいいのだが、戯曲としては物足りなかった。また、「浮いていく背中に」というタイトルと共に、踏切を越えて行くくだりはとても爽快で哀しいイメージを喚起されるのだが、それがもう少しこの戯曲全体を包み込んで欲しかった。
「流れんな」は上演も観ているのだが、その時と同じ印象だった。横山さんはとにかく台詞がうまい。そのニュアンスに引き込まれて騙されそうにはなるのだが、どこか心に引っかかりが残る。注意深く読んでみると、登場人物がその台詞を発話するための理由が不明であったり、その言葉が零れる地点までモチベーションが高められていないことがわかる。会話を主体とした戯曲を書く場合、台詞は自然と流れていかなければいけない。つまり、作者が顔を出してはいけないのだが、時々作者の力みが見えてしまうのが惜しい。
「中央区今泉」はこれだけの登場人物を上手に動かしているとは思った。登場人物それぞれの悩みを群像として描きたかったのだろうが、それにしては個々が抱えている人生の悩みがステレオタイプすぎる気がする。また、場所をタイトルにしているのであれば、その場所が変遷していく様子を見せるなどもう一つ仕掛けが欲しかった。もしくは、おしゃれな街だといわれている今泉と、そこで生活する人々の不器用さの対比など、何かしら
「ブスとたんこぶ」は会話も自然だし、人物配置が上手だと思ったが(特に基子と留美)、人物造形が固まり切っていない感じがした。特に喜子の変化などに感情移入することができなかった。
「戦うゾウが死ぬとき」は読みながら混乱した。なにかあるようで、それでいてそれが見えてこない。最初は分析的に読んでみたが、それでも整理がつかなかった。パズルのピースをはめるように理解する必要はないのだが、だとすれば、イメージなりがもっと立ち上がって来なければいけない。抽象で話を進める場合、ある諒解感は必要な気がする。読む側の問題もあるのかも知れないが、私には届かなかった。
2次審査に残った7本はどれも一定の水準に達していたと思う。しかしどれが大賞かというと首をかしげてしまった。決め手がないのだ。
最初、「浮いていく背中に」を面白く読んだ。既視感のある語り口だが、十分に世界の広がりが感じられた。身体へのこだわりがバック歩きの不自由感と相まって独特の閉塞感を現出させている。緊張のある空気がいい。多用される「出た。出てしまった」というような言い直しをはじめとする独特な言い回しは悪い意味に技巧的でルーティーンのようでピンと来なかった。
「ぼくの、おばさん」は熊本弁の語り口が魅力的。急一の独白がナレーションのように入ってくるが、何もかも台詞で説明してしまって行間がなく、窮屈な印象。最終的にはこの作品を推したが、大賞とするには残念ながら何かが足りない。
「戦うゾウの死ぬとき」は魅力的な筋立てであるが、終盤で夫婦の物語に落とし込んだ瞬間、スケールダウンしたように感じた。思わせぶりな展開だが世界が広がらないまま終わった印象。象や釘などのモチーフが作品に貢献してたかどうかは疑問。惜しい。
「終わってないし」は現実世界でのドラマがもっと見たかった。会話のリズム感には好感が持てた。
「ブスとたんこぶ」は「ブス」という単語を敢えてタイトルに使ったが、しかし喜子の問題は容姿上のつまりブスであるかどうかということではない。「たんこぶ」にも愛は感じられない。アイロニーにもなっていないので、これでは不快なだけではないか。全体的に悪くないと思うのだが、綺麗に揃いすぎの印象。不幸や貧乏がステレオタイプと感じた。
「中央区今泉」は地方都市における都市部と農村部の相克が浮かび上がってくるが、どこか浅い。登場人物がいい人ばかりでスリルがない。
「流れんな」は御都合主義な展開。企業の重大事を最もバラしてはいけない立場の人間に向かってペラペラしゃべるのはそれなりの理由が必要。ラストで何もかも解決してしまうのはいかがなものか。テーマ盛り込み過ぎ。
昨年に引き続き、審査に参加させていただいた。候補作を全て読んで僕は困った。大賞に押せる作品がなかったからだ。全ての作品が綺麗にまとまっている。まとまっているのが悪いわけではないが、上手な戯曲なんて読みたくもない。書き続ければ嫌でも上手くなるのだ。一番上手い人を決める大会なら作家が審査する必要もない。下手でもなんでも才能が見たかった。技術は欲望を抑制するのではないだろうか。欲望を欲望のまま提示する方法もまた技術だとしたら、それが今回の候補作には足りなかったと思う。全ての作品をまとめて評するのは失礼だと思うが、あえてまとめて評する。ファミレスの料理みたいな戯曲に感じた。美味しくて安全。僕はこれじゃあ駄目だと思う。どうせなら毒が食いたい。僕が間違っているかも知れない。間違っていたら、五年後十年後に、僕はいないだろうから、それで判る。
皆さんには才能があると思う。小さくまとまらないで欲しい。糞みたいな戯曲でも良いから、作家の生の欲望が見えるものを書いて欲しい。僕もそこを目指して頑張ります。偉そうなことを言ってすいませんでした。でも、賞なんて糞食らえ、お前ら審査員なんかより俺の方が面白いに決まっているだろ、という気持ちで来年また応募してください。
募集期間 | 平成26年8月4日~10月17日 | ||||||||||||||||||||||||
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応募数 | 58作品 | ||||||||||||||||||||||||
年齢別 |
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都道府県別 |
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長田 育恵 | (演劇ユニットてがみ座主宰) |
斎藤 歩 | (札幌座チーフディレクター) |
土田 英生 | (MONO代表) |
畑澤 聖悟 | (劇団渡辺源四郎商店主宰) |
前田 司郎 | (劇団五反田団主宰) |
大賞 | 『悪い天気』 | 藤原 達郎 | |
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優秀賞 | 『乗組員』 | 島田 佳代 | |
最終選考作品 | 『あなたとのもの語り』 | 粟飯原 ほのか | (神奈川県) |
『終末の予定』 | 福谷 圭祐 | (大阪府) | |
『乗組員』 | 島田 佳代 | (鹿児島県) | |
『薄暮(haku-bo)』 | イトウワカナ | (北海道) | |
『ムカイ先生の歩いた道』 | 加藤 英雄 | (東京都) | |
『私の父』 | 戸塚 直人 | (北海道) | |
『悪い天気』 | 藤原 達郎 | (福岡県) |
大賞作品は上演される、また作品を手掛ける演出家は既に決定している。これは、この新設の戯曲賞の大きな特色であると思う。大賞作には、上演されることでより一層世界観が際立つ可能性と弾力性が求められた。
私は「乗組員」「あなたとのもの語り」「終末の予定」を気に掛けて審査会に出席したが、それぞれの作品に魅力を放つ独自性を認めつつも、大賞に推すにはあと一歩及ばなかった。
「乗組員」の“波止場に無人の小舟が見つかる。乗組員は依然として行方不明”この不穏な通奏低音を作品世界に引き入れようとした着想に最も惹かれた。構造も端正。だが登場人物に共感させる引き込みが弱く、着想のスケール感を生かし切ることができなかった。「あなたとのもの語り」は主観と客観が切り替わっていく文体を刺激的に感じた。作者が意図的に俳優の身体性などに委ねる余白を取り込めば、演劇作品としてより一層の可能性を拡げたと思う。「終末の予定」は、既視感ある物語を、それでも惹き付け軽やかに読ませていくバランス感覚。けれどある既存の作品を自作の世界観を築くための柱としてしまったのは残念。作者の今後に注目したい。
受賞作「悪い天気」は台詞・語感のセンスが卓抜していた。日常の言葉が作者の選択と巧みな配置により見慣れない輝きを帯びはじめ、観客を日常とは似て非なる異層にある作品世界へと導いていく。特に冒頭の男女二人の台詞、掛け違いの言葉を重ねながら二人の関係性へ興味を引き込んでいく誘因性には静かな興奮を味わった。しかし中盤以降、新たな登場人物が現れても劇世界に大きな影響が与えられない点と魅力ある会話を重ねながらも作品が秘めた核心にいつまでも触れられない点にもどかしさを感じた。
しかし同時に、その点にこそ演出の前田さんの手によって新たな鉱脈が発見される期待感を煽られる。演出家との対話によって開かれうる戯曲。この戯曲賞ならではの第一回大賞として、こうした作品と巡り会えて嬉しく思う。
まず、残念ながら大賞に推せる作品がないという印象から私の今回の選考は始まりました。しかし、折角の北海道戯曲賞であり、今後前田さんの演出により、リーディング~本公演に至る過程での劇作家と演出家のやり取りを経て、改善してゆく余地や可能性を考慮し、私は「悪い天気」を推しました。
最終選考に残った7作品の中で群を抜いて台詞の巧みさや、上演した場合の面白みに可能性を感じました。果たしてこれを前田さんはどう演出するのだろうかと楽しみに思えた作品はこの「悪い天気」だけでした。他の作品はその結果が簡単に想像できてしまうように思えたのです。
結果、九州からの応募作品2作品が大賞・優秀賞に決定したことは、この北海道戯曲賞の特色を現わしたということでもありますが、北海道の劇作家の作品2作品がいずれもこのレベルに達していなかったことが残念でもありました。戸塚さんの「私の父」は実に生真面目で、バカが付くほど正直に書かれている印象の作品で好感が持てたのですが、構成や台詞が他に比べると稚拙な印象があり、〈父と娘〉の微妙な葛藤を描き切れていないと感じました。イトウさんの「薄暮(haku-bo)」は戯曲としての新たな形式に挑戦したように見えたのですが、自身で演出するのではなく他の演出家に委ねた場合の戯曲としての自立と言う部分では脆弱で、場面の構成が〈薄暮〉というイメージに戯曲単体では迫れていないと感じました。今後、北海道から大賞受賞者が現れることを期待する意味でも、このお二人には今後も積極的に書き続けて行って欲しいと思いました。
一つとして似通った戯曲がなく、様々なタイプの戯曲が最終選考に残り、そのすべてについて可能性を議論した4名の劇作家・演出家との議論はとても豊かな時間でした。北海道戯曲賞とはどういう戯曲賞であるべきかという根本から議論することのできた有意義な経験でした。応募作品全ての下読みという大変苦労の多い仕事をしてくださった北海道在住の演劇人たちにこの場を借りて感謝の気持ちを顕わしたいと思います。同時に、数多くの劇作家がいる中で今回のこの5名を審査員に選んでくれた北海道舞台塾実行委員会の方々にも感謝しています。
候補作を読み終わった段階では、福谷圭祐さんの『終末の予定』か島田佳代さんの『乗組員』を大賞に推そうと思っていた。
『終末の予定』は地球が終わる最後の一時間、限られた登場人物たちの過ごす時間を描いた作品だった。諦観したようにすら思える人々の有様にはリアリティーがあり、それこそハリウッド映画などに出てくる登場人物とは真逆のベクトルで存在する彼らに親近感を覚えた。唯一気になったことは、作品として普遍化するには至っていない部分が散見されることだった。例えば劇中、ゲーム「ピクミン」をやっている男が出てくるのだが、この場合、ピクミンという、実際にあるゲームが持つ哀しさを知らなければ、効果は半減してしまう。固有名詞を出す場合はそのことに繊細であるべきだと思う。あの使い方では作者の皮膚感覚を理解できるのは、ある特定の共通ルールを持った人たちに限られてしまう。万人に分かるように書くということではなく、押し通すのであれば、それなり仕掛けを考えるか、そのようなことを全く気にさせない強い腕力が必要となる。他の審査員メンバーから出た否定的な意見は、その世界の狭さを作者の開き直りだと受け取った結果ではないかと感じた。
『乗組員』は最も完成された作品だと思った。素直に読むことができたし、なにより劇世界としての破綻も少なかった。ただ、そのことが逆に物足りなかった。島田さんの力量はよく知っていたので、もっと熱量を感じたかったというのが正直な気持ちだった。
藤原達郎さんの『悪い天気』だ。とにかく台詞が抜群に面白かった。不条理な会話ではあるのだが、そこには理屈ではない実感があった。これは相当なセンスがなければ書けないと唸った。途中、はっきりと失速する部分はあるし、会話の流れに無理が生じて、作為的になってしまっているのだが、それを補って余りある台詞とイメージの力があった。
他の作品についても個々に思うところはあるのだが、上記の三作品と比べた時、やや力の差を感じた。
『あなたとのもの語り』を特に興味深く読んだ。二人の人物の主観がめまぐるしく入れ替わることで夫婦の関係性が浮かび上がってくる。ナレーションも回想も同じ仕掛けでやり切る潔さに感心した。しかしその反面、全体のトーンとリズム、ダイアローグとモノローグの切り替えの規則が常に一定で単調になってしまった。風景も感情もなにもかもびっしり隙間なく書き込まれているため、単調さが倍増する。何を書かないか選択することも必要だったと思う。終盤に別の展開を用意する戦略もあったはずだ。長い台詞が多用されているが、生身の俳優が語ったときに面白いかどうかは疑問。成立させるのには骨が折れそう。以上の難点から大賞に強く推せなかったが、それでも魅力にあふれている。全体を覆うささやかでけだるい幸福感が捨てがたい。作者の今後に大きな可能性を感じる。
『終末の予定』はやり尽くされた感のある題材を生殖というテーマで描いた。手慣れた感じがあり良くまとまっているが、技巧が先に見える印象。技術もセンスもある。もっと広い世代に受け入れられるものも書いてみてはどうか。
『乗組員』は雰囲気のある作品であり、小さなコミュニティの閉塞感を良く伝えていた。主人公の妻の「幸福への恐怖」には残念ながら共感することができなかった。
『薄暮(haku-bo)』は札幌という固有の都市を薄暮という時間で切り取った。こういう作品が札幌で生まれたことは喜ぶべきことだが、別に他の都市や他の時間であっても構わない内容。どの土地どの時代にも通用する普遍性は置き換え不能な必然性から生まれるのではないか。三つのエピソードも羅列しただけの感が強い。薄明薄暮性動物の設定も生かされていない。もっと力のある書き手だと思うので、今後に期待したい。
最終的に推したのは『悪い天気』であった。台詞が抜群に巧い。才能を感じる。終盤の展開に若干の物足りなさを感じるものの、演出によって大きく印象が変わるのではと思う。上演が楽しみである。心からおめでとうございます。
自分も書き手であり、自分の作品は自分で評価すべきだと思っているから、これまでは戯曲や小説の審査をしてこなかった。今回、初めて戯曲の審査をしたのは、依頼されて嬉しかったからだ。これが初めての審査員の依頼だったのです。
あまり長々と書くわけにはいかないので、書けるだけ、感想と評価を書いていく。
「乗組員」全体としては好感を持って読んだ。作者のセンチメントに寄り添いすぎている印象で少し疲れた。晴れ間が覗く瞬間がもう少しあってもいいのでは? しかし説明の簡潔さ清楚さから、物語の外に世界の広がりを感じた。僕はこの作品を三番目に押した。
「ムカイ先生の歩いた道」もう少し整理して書いて欲しい。無駄なシーン、人物が多い気がする。無駄には良い無駄と悪い無駄があると思う。ただ、とても楽しそうに書いているなと言う印象。しかし、観るほうはどうだろうか? 作者と観客が一緒に作品を楽しむには、観客の話もきく必要があると思う。
「悪い天気」この作品を一番に押した。会話の面白さ、発想が良かったと思う。ただ、もう少し親切でも良かったのでは? 観客は物語の先を行こうとする。作家はそれをさせまいとする。その競争がスリリングなほうが面白いと思う。作者が突っ走ってついていけない。何か、この物語の奥にあるものを暗示するヒントのようなものをもう少し置いておいて欲しかった。
「あなたとのもの語り」舞台に乗せるイメージがしっかり出来ていただろうか? 出来ていたとしたら観客の我慢強さを信じすぎじゃないだろうか? 構造の面白さは感じたが、戯曲のもつ生き物のような躍動感は感じ辛かった。
「薄暮(haku‐bo)」戯曲賞なので、戯曲として読んだ。戯曲として読みにくかった。飲み屋で良く知らない人の話を延々聞かされている感じ。話し方(この場合は上演の仕方)が面白ければ聞けるかも知れないが、戯曲なので僕は高く評価しなかった。
「私の父」まじめで好感がもてた。どこかの公民館で講演を聴いているような内容。無駄な要素をもう少し入れたらどうだろうか。しかし、「俺が俺が」という作者のでしゃばりが感じられず読んでいてホッとした。僕は二番目にこれを押した。
「終末の予感」終末の肌触りを感じられなかった。終末という設定が作者のニヒリズム(読んでいて照れ臭い)を宣伝するシステムになってしまっていないか? また既存のゲームからの引用が作品の中で占めるウエイトが重過ぎると思う。他人の作品に頼っているように見える。僕は高く評価しなかったが、評価している方も居て、面白いなと思った。
まとめ。北海道戯曲賞、是非毎年やってください。演出家の仕事は信じること、劇作家の仕事は疑うことだと思っています。本当にこれが自分の一番面白いものなのか? 書きあがった戯曲をもっと疑ってみてください。僕は良い事言いますね。全くその通りです。自分もそのようにしないと。自戒。